リ・ライフ腎移植体験談文集1998〜2005より < 体験談文集 < TOP
40代・女性

二十世紀も終わろうとしていた初冬、いろいろな制限のあった丸十年の透析生活にピリオドを打ち、私の第二の人生が始まった。
 それから、もう五年―――。

 透析をしていた頃と今とを比べて、変わったことと言えば「食べ物の味」である。透析をしている時も、普通に美味しく飲食していたが、移植後に始めて飲んだ水の味に感激したことを覚えている。他には、透析をするため週三日は、遅くても夕方には病院へ行くので、時間を気にして生活していたが、今は、その必要がないので気の済むまで、いろいろなことを楽しめるようになった。 そして、この五年間での一番の変化は、なんと言っても結婚したことである。彼は、病気については全然知らない人である。なので、病気のことを話す時、これで嫌われるならそれまでの縁・・・と、開き直りつつ切り出した。驚きを隠せないまま、しばらく沈黙が続いた後、彼は「大変だったんだな。良く頑張ったな。」と、言ってくれた。その言葉を聞いた瞬間の、体の力が抜けるような嬉しさは、ずっと忘れられずにいる。
 いろいろな場面で、いろいろな人達に「頑張れ」と言う言葉をかけられることはあっても、「頑張ったな」と言う言葉は、かけられることが少ないから余計に・・・だと思う。
 そんな感じで、分からないながらも私の病気のことを優しく受け止めてくれた彼と結婚することができた。透析をするようになって、あきらめていた結婚である。これから先、どんなことが起こるか予想もできないが、新しく始まったばかりの第三の人生を、焦らずゆっくりマイペースで、一歩ずつ進んで行こうと思っている。健康な体を傷つけて腎臓をくれた父を始め、周りの人達に感謝の気持ちを忘れずに―――。

20代・女性

二十代最後の誕生日を迎えた四日後、腎臓移植を受けるため、秋田大学医学部付属病院に入院しました。かなり緊張していましたが、同じ部屋に二年くらい前に移植したという方がいて、色々と話を聞くことが出来たので、不安も次第になくなりました。そして、入院から二週間後の平成十七年二月一日、私は父をドナーに生体腎移植をしました。手術当日は父が八時四十五分、私が九時十五分頃に手術室に向かいました。事前に安定剤を飲んでいたので、緊張感も不安もなく母と妹、親戚の人達に見送られ、手術室に入りました。手術室に入ってすぐ麻酔をかけられ、気づいた時は次の日の朝だったような・・・その時の記憶はハッキリと覚えていません。手術を終え病棟に戻って来たのは父が夕方五時過ぎ、私が夜の十時頃だったそうです。長く時間がかかったのは、手術 前の検査で父の右の腎臓に大動脈瘤というコブが見つかり、まずコブを取って血管を縫い合わせてから私に移植という事だったからです。また父の腎臓が人より大きくて私に移植をするのが大変だったという事を後から聞かされました。
 無菌室の生活は「辛いのは一週間だけ!」と聞いていたので覚悟はしていましたが、本当に辛かったです・・・。体中に色んな管があるので、自由に身動き出来ず、仰向けのまま同じ姿勢で寝ている事に半泣き状態でしたし、無菌室内の歩行を許されてからも妊婦さんみたいにお腹が大きくなっていたので、立っているのも歩くも大変でした。でも、先生や看護師さん達に「順調ですよ。ちゃんとおしっこ出てるよ!」と声を掛けられると嬉しさと安堵感で苦しいのも我慢出来ました。何よりも毎日面会に来てくれる母や妹の励まし、そしてまだ自分の傷も癒えない父も私に会いに来てくれる事で辛い生活を乗り越える事が出来たのだと思います。
 ただ私にはもう一つ、サイトメガロウイルスとの闘いが待っていました。移植して一ヶ月ぐらい経ったある日、急に熱が出て次第に高く上がるようになりました。サイトメガロウイルスには移植前の検査で絶対に感染するだろうと言われていたので、大したショックではありませんでした。症状は熱と腹痛と下痢で多少大変でしたが、治療が一日二回デノシンという点滴をするだけだったので、全く苦痛ではなかったです。点滴は日に日に間隔が空いていきましたが、治療には長い時間が必要だったため、私の後に移植した人達が次々と退院していくのを見て、うらやましい気持ちでいっぱいでした。でも、長い入院生活で得られたこともたくさんありました。同じ部屋に入院して来る人や検査入院して来る移植の先輩達・・・一緒に話をする事で悩みを分かち合ったり、色々な情報を得て勉強になり、移植の先輩の紹介で移植仲間が増えたりと私にとって大きなプラスになったと思います。
 約半年の入院を経て退院後、「顔色が良くなったね!明るくなったね!笑顔が出るようになったね」と言われる事が多くなりました。自分では気づいていなかったので、「私ってそんなに暗かった?」と不思議な感じでした。
 「腎臓移植はテレビの世界なんだ・・・」とずっと思っていましたが、今回実際に移植が出来た事に本当にたくさんに方々に感謝の気持ちでいっぱいです。私のためにドナーという大きな決断をしてくれた父、私をずっと励まし応援してくれた母や妹、親戚の人達、そして手術をしてくれた移植チームの先生方、入院中のケアをしてくれた看護師さん達・・みんなに深く感謝いたします。これからもずっと感謝の気持ちを忘れず、一日一日を大切に、前を向いて生きて行こうと思います。
本当にありがとうございました。

60代・女性・夫婦間移植・ドナー

私達夫婦が腎移植を行ったのは、平成十六年九月十四日です。主人は前の年の八月から大館市の病院で透析を受けていました。透析をしてから体調はかなり良くなりましたが、週三回の透析はなかなか大変なことで、食事にも気をつかい、これから年を重ねるにつれ、病院に通うのも大変になるのではと暗い気持ちでおりました。
 透析を始めて三ヶ月ぐらいした頃、新聞で秋田大学病院が腎移植手術をかなりの件数行われている事を知りました。そして十一月頃、大館市に佐藤滋先生が腎移植についての講演にいらして、今は血液型が異なっても夫婦間で移植が出来ると言う事と、ドナーからは内視鏡で行うので、傷口がかなり小さいと言う事でした。私は今の医学が進歩している事に驚き、夫は六十八才、私は六十三才と高齢ですが、二人ともO型でしたので、もしかしたら移植手術が出来るのではと思い、十二月十七日、秋田大学病院の泌尿器科を受診し検査を受けていました。そして年明け一月七日、特に問題はないと伺い、その後の検査予定を立てていただき、ドナーの私は四月に四日間の入院で最後の検査を終え、六月頃、九月十四日の手術の予約を受けました。主人は多少の不安もあったようですが、ドナーの私は常に前向きに考え、主人に移植出来る幸運と、現代医学の進歩に感謝し、手術を行ってくださる医師を信頼し、手術の日を待ちました。主人は手術の二週間前に入院し、移植手術を終えた方々から話を聞いて気持ちが落ち着いたようでした。私は四、五日前に入院し、手術や麻酔の説明を聞いたりしてすぐ手術の日を迎えました。
 術後の傷の痛みもあまり感じず、主人が十日位で大部屋に移った頃、私はまもなく退院し、主人も十一月十日退院しました。今では食事も気負いなくいろいろな物を食べ、時間を気にせず出掛けられ、お世話になった先生方や看護師さんに感謝し、夫婦二人で、毎日を大切に過しております。

60代・男性・ドナー

平成十五年六月十七日。秋田大学医学部附属病院2階西病棟、206号室。息子と隣り合わせのベッドに私がいる。深夜2時、点滴交換で目覚める。息子も起きている。みんな寝静まっている部屋の中、小声で「誕生日おめでとう」と言われる。今日は、私の還暦の日なのだ。そして、いよいよ移植手術のXデ ーが来た。手を伸ばしあい、父子が万感の想いを込めて無言の握手を交わす。全てを分かり合える温もりが通い合う。とにかく風邪を引かないようにと気を使ってこの日を迎えた。息子の体調にも変化はない。
 午前八時半、慌ただしい一日が始まった。まず私が処置室に。息子は十時半に続いたという。家族が息子を手術室の前まで送り、ストレッチャーの乗り奥に入っていく姿に、母が「頑張れ」と声をかけると、大きくてをあげて応えたという。その後、家族は本当に長い時間、手術室の前で、二人の手術が終わるのをただひたすら待ち続けた。午後三時に私が病室に帰り、息子は午後六時に手術を終えたがその後処置に少し時間を要したという。
 夜に佐藤滋先生が来られて、「移植手術はうまくいきました。出血は見られません。この後、準備が整い次第、無菌室に移ることになります」と。ストレッチャーの息子に二男が、「兄貴、頑張ったなあ」に、大きく目を開け、「おっ」と返事。家族は息子面会して、顔色が明るくすっきりしたことにまず驚いたという。
 深夜に、医師から、息子の容態について「順調です。血圧も安定しています」と。まずは安堵の夜を迎えた。
 この日、ドイツの友人からメールあり。「吉田さん、お二人とも良い結果で退院できるのを心待ちしています。"kopf hoch」と。
 翌六月十八日。息子のいる無菌室は扉が閉まっており、状況が分からない。看護師さん達からの話では、息子にはかなりの尿量が出ており、手術はうまくいったという。ある看護師さんに至っては、「息子さんから滝のようにおしっこが流れている」と伝えてくれた。うれしかった。たあだ、うれしかった。中古の腎臓だけれど、役に立ったのが無性にうれしかった。
 昼ころ、許可が得られたので息子のいる無菌室に行ってみた。手を消毒し、マスクを掛けて入る。息子が上目づかいにこちらを見ている。すっきりとした顔をしている。「ありがとう」と言われる。「頑張れ」と励ます。尿意がいつもあるようで、「どうしたらいい」と聞いてくる。まだ何本かのチューブが身体に巻き付いていて、自由がきたない身だが、これも以前の透析に煩労に比べればもはや時間の問題だけだ。長年の鬱積から解放された喜びと安堵感が本人は無論のこと家族の一人ひとりの胸中に広がる。
 息子と握手をする。「お互いに長生きしような」。
 佐藤滋先生が来られた。この喜び、感激をどう言い表し、感謝してよいやら、ただ先生に深く頭をたれるだけだ。
 秋田大学医学部附属病院泌尿器科の存在があって、今の息子の生命がある。私ども秋田県民の誇りに思えるスタッフのご苦労と医療技術の高さにただ深く敬意と感謝を申し上げるだけである。

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