リ・ライフ腎移植体験談 ドナー(臓器提供者)集 < 体験談文集 < TOP
60代・男性・ドナー(臓器提供者)

娘の腎臓が悪くなるにつれ、親として、「自分に出来る事はないだろうか。」という思いが強くなりました。
 透析をする中、佐藤先生より、腎移植の話をして頂きました。運良く、検査の結果、私の腎臓が適合する事を知り、一日も早い手術を待ちました。検査は、病院嫌いの私でも、さほど苦にならず、我慢の出来るものでした。
平成13年の冬、私から娘へ腎移植手術が行われました。正直言って、前日まで不安な気持ちが強かったのですが、手術は7時間位で終わり、私はのどに入った管のせいか、声が少し出にくくなってはいたものの、術後の経過も良く、次の日には、無菌室の娘に会いにいける様になっていました。
幸い娘の方も、心配していた拒絶もなく、元気に退院することが出来ました。私の方も、提供前と変わらず、体力の減退もなく、前と変わらず生活しております。元気になった娘を見て、前とは違う親子関係が作れた事を、とても幸せに思っております。
最後に、腎移植をたずさわった先生方、皆様に本当に、ありがとうございました。

50代・女性・ドナー(臓器提供者)

私が娘の危機に曝された時、脳裏をかすめたものは、悲しみでも恐れでもなく、親より先に逝かせてなるものか、生かさねばならないという、怒りにも似た感情でした。せっかく親として、子として結びついたのに、こんなに早くさよならなんて、わたしは言えません。今の自分にできることはなんだろう。思い悩む日々、辛そうな娘の姿が目に焼き付いて離れません。ベッドの上で肩で息をする音が、悲痛な叫びとなって響いてきます。また透析室から出て来る時のふらついた足取りに、血の気の失せた唇、小さなわたしの体に、娘の大きな体が倒れこむように覆いかぶさってきたものです。満足に好きな物も食べれません。せめてコップ一杯の水を、ゴクゴクと喉が鳴るほど飲ませてやりたい。何度そんな衝動にかられたことでしょうか。
 腎移植の話が出た時は、闇の中で光を見た気がしました。大袈裟かもしれませんが、この為にわたしはこの子の親として、この世に生を受けたのだと思いました。ドナーとして、検査すらもどかしく感じられたものです。ただ心にあるのは、早く早く、もっと早くわたしの腎臓を娘にあげて!それだけでした。
 ドナー検査がどういうものであるかなど、わたしにとって大した問題ではありませんでした。検査の内容は、その都度懇切丁寧に、先生や看護師さんが説明してくださいます。痛みといえば、チクッとする注射針ぐらいのもの、あと要求されることといえば、待つ時間をどのように費やせるかの根気くらいのものでしょうか。それでも、疑問が生じたら周囲の誰かに投げかければいいし、不安に押しつぶされそうになったら手を伸ばせばいい、きっとその手を握ってくれる人が居るのですから。先の心配ばかりしていたんでは、なんの解決にもないどころか、目の前の本当に大事なものさえ見えなくなってしまいます。苦しみにもがいている自分の愛する者の為に、一歩前に踏み出す事から奇跡は生まれると思うのです。
 わたしの腎臓が娘の体に組み込まれて早5ヶ月が経過しました。娘は1ヶ月に1、2回診察していただいています。順調に仕事復帰も叶いました。ドナーのわたしは、わがままな性格が災いしてか、傷が普通よりもチョイと治りが遅かったようです。が、現在この大雪とスコップを持って格闘できるほどになりました。この喜びを、そして感謝を、孤独に考えあぐねている人に、少しでも分けてあげられたらどんなにいいでしょうか。
 今日もわたしと娘は、平凡に生活しております。この平凡な生活というのがどんなに非凡なことか、それを今この時ほど実感できたことはありません。

60代・女性・夫婦間移植・ドナー(臓器提供者)

私達夫婦が腎移植を行ったのは、平成十六年九月十四日です。主人は前の年の八月から大館市の病院で透析を受けていました。透析をしてから体調はかなり良くなりましたが、週三回の透析はなかなか大変なことで、食事にも気をつかい、これから年を重ねるにつれ、病院に通うのも大変になるのではと暗い気持ちでおりました。
 透析を始めて三ヶ月ぐらいした頃、新聞で秋田大学病院が腎移植手術をかなりの件数行われている事を知りました。そして十一月頃、大館市に佐藤滋先生が腎移植についての講演にいらして、今は血液型が異なっても夫婦間で移植が出来ると言う事と、ドナーからは内視鏡で行うので、傷口がかなり小さいと言う事でした。私は今の医学が進歩している事に驚き、夫は六十八才、私は六十三才と高齢ですが、二人ともO型でしたので、もしかしたら移植手術が出来るのではと思い、十二月十七日、秋田大学病院の泌尿器科を受診し検査を受けていました。そして年明け一月七日、特に問題はないと伺い、その後の検査予定を立てていただき、ドナーの私は四月に四日間の入院で最後の検査を終え、六月頃、九月十四日の手術の予約を受けました。主人は多少の不安もあったようですが、ドナーの私は常に前向きに考え、主人に移植出来る幸運と、現代医学の進歩に感謝し、手術を行ってくださる医師を信頼し、手術の日を待ちました。主人は手術の二週間前に入院し、移植手術を終えた方々から話を聞いて気持ちが落ち着いたようでした。私は四、五日前に入院し、手術や麻酔の説明を聞いたりしてすぐ手術の日を迎えました。
 術後の傷の痛みもあまり感じず、主人が十日位で大部屋に移った頃、私はまもなく退院し、主人も十一月十日退院しました。今では食事も気負いなくいろいろな物を食べ、時間を気にせず出掛けられ、お世話になった先生方や看護師さんに感謝し、夫婦二人で、毎日を大切に過しております。

60代・男性・ドナー(臓器提供者)

平成十五年六月十七日。秋田大学医学部附属病院2階西病棟、206号室。息子と隣り合わせのベッドに私がいる。深夜2時、点滴交換で目覚める。息子も起きている。みんな寝静まっている部屋の中、小声で「誕生日おめでとう」と言われる。今日は、私の還暦の日なのだ。そして、いよいよ移植手術のXデーが来た。手を伸ばしあい、父子が万感の想いを込めて無言の握手を交わす。全てを分かり合える温もりが通い合う。とにかく風邪を引かないようにと気を使ってこの日を迎えた。息子の体調にも変化はない。
 午前八時半、慌ただしい一日が始まった。まず私が処置室に。息子は十時半に続いたという。家族が息子を手術室の前まで送り、ストレッチャーの乗り奥に入っていく姿に、母が「頑張れ」と声をかけると、大きくてをあげて応えたという。その後、家族は本当に長い時間、手術室の前で、二人の手術が終わるのをただひたすら待ち続けた。午後三時に私が病室に帰り、息子は午後六時に手術を終えたがその後処置に少し時間を要したという。
 夜に佐藤滋先生が来られて、「移植手術はうまくいきました。出血は見られません。この後、準備が整い次第、無菌室に移ることになります」と。ストレッチャーの息子に二男が、「兄貴、頑張ったなあ」に、大きく目を開け、「おっ」と返事。家族は息子面会して、顔色が明るくすっきりしたことにまず驚いたという。
 深夜に、医師から、息子の容態について「順調です。血圧も安定しています」と。まずは安堵の夜を迎えた。
 この日、ドイツの友人からメールあり。「吉田さん、お二人とも良い結果で退院できるのを心待ちしています。"kopf hoch」と。
 翌六月十八日。息子のいる無菌室は扉が閉まっており、状況が分からない。看護師さん達からの話では、息子にはかなりの尿量が出ており、手術はうまくいったという。ある看護師さんに至っては、「息子さんから滝のようにおしっこが流れている」と伝えてくれた。うれしかった。たあだ、うれしかった。中古の腎臓だけれど、役に立ったのが無性にうれしかった。
 昼ころ、許可が得られたので息子のいる無菌室に行ってみた。手を消毒し、マスクを掛けて入る。息子が上目づかいにこちらを見ている。すっきりとした顔をしている。「ありがとう」と言われる。「頑張れ」と励ます。尿意がいつもあるようで、「どうしたらいい」と聞いてくる。まだ何本かのチューブが身体に巻き付いていて、自由がきたない身だが、これも以前の透析に煩労に比べればもはや時間の問題だけだ。長年の鬱積から解放された喜びと安堵感が本人は無論のこと家族の一人ひとりの胸中に広がる。
 息子と握手をする。「お互いに長生きしような」。
 佐藤滋先生が来られた。この喜び、感激をどう言い表し、感謝してよいやら、ただ先生に深く頭をたれるだけだ。
 秋田大学医学部附属病院泌尿器科の存在があって、今の息子の生命がある。私ども秋田県民の誇りに思えるスタッフのご苦労と医療技術の高さにただ深く敬意と感謝を申し上げるだけである。

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