リ・ライフ腎移植体験談文集3より < 体験談文集 < TOP
30代・男性

2000年10月20日、俺(1969年生まれ)は腎不全と診断され目の前が真っ暗になった。10月31日、血液透析開始。2002年4月24日、下痢、嘔吐の繰り返しでシャント閉塞。そして2002年9月8日、息子の運動会の日だった、両親と一緒に「じゅうじゅう」で肉を食っていた時、母(1945年生まれ)が突然言い出した。「この前、テレビで腎臓移植やってたけど、私よりも年配のドナーだったな、私も出来るんでねえ?」この一言が"きっかけ"で俺の移植の話が始まった。(両親はそれまで移植についてはあまり知らなかった)俺は凄く嬉しかった。なぜなら腎移植については知っていたが、いくら親でも自分からは言い出せなかった。だから一生、透析をする覚悟をしていたからだ。
 大学病院で検査を受け、手術日が2003年1月21日に決まり、1月7日に入院した。部屋には移植患者が2人いたので何かと心強かった。手術前日に母が、透析している俺の所に来て、なんとも言えない表情をしていた。手術は無事に終わり、気がつくと腰に激痛があってかなり苦しかった。その他いろいろ痛みはあるが、「あれ!透析してないんだ」「こんなに飲めるんだ」「おしっこ出てる」と思うと嬉しくて、1週間の無菌室での治療はのり越えられた。大部屋に移ったころには激しい痛みなどは無くなり、飲んではトイレの繰り返しだった。母は術後10日で退院していった。透析室にきてくれたときの表情とは、全然違っていた。俺も予定どおりに進み、外泊したあと(体を慣らすため)、3月7日に退院した。
 考えてみると俺の場合、ちょっとした"きっかけ"で、約2年間の夜間透析(週3回、4時間)、食事と水分の制限、ストレス、ここでは書きようのない苦しみから開放されたことは、かなり運がいいと思った。俺は幸せ者だ。
 これからは、俺たちが"きっかけ"をあたえてやらなければ・・・

30代・女性

平成8年からCAPDをしていて、平成12年の2月に腎移植の話があり移植をすることになりました。ドナーは母で、私と一緒に母も入院して沢山検査をしました。手術日が近づいてきたある日、急に足の異変に気づき先生に言ったら、整形を受診するように言われ翌日、整形を受診したのですが、特になんでもないといわれました。それなのに、日に日に足の状態が悪くなっていきました。そして手術の前日には全く歩けなくなり足もビックリするくらい腫れていたんです。それで、よく調べてもらったら、「血栓」が出来てしまっていたのです。そのため、移植は前日の夜に「中止」ということになりました。 スグに専門の病棟に移動して治療を受けました。
肺にも血栓が飛んでいってしまっていて、「もう少し発見が遅かったら死んでいたかも・・・」 とも言われました。それで、肺にこれ以上血栓が飛んでいかないように、肺に繋がってる血管に傘のような網のようなものをつけて、血栓がその先にいかないようにする手術もしました。血栓はなくなりきることは無いと言われたので、はっきり言って、自分でも「もう移植は無理なのかなぁ・・・」と思っていました。でも約2年半かけて、少しずつ新しい血管も出来ていき移植が可能な状態になりました。
 そして、平成14年7月23日に移植をすることに決まりました。 手術の前に先生から移植についての説明を両親同席でしてもらったんですが、先生の口からでてくる言葉にショックを受けたりもしました。 私の場合、血栓の問題があったので、その「血栓が出来て、流れだし新しく入れた腎臓に行ってしまうと、すぐに腎臓はダメになってしまう。」といわれました。他にも色々お話を聞きましたが最初に言われたのが結構ショックで後のほうは覚えていませんでした。でも、私も両親も話を聞く前から、すべてを先生達にお任せしようと決めていたので何のためらいも無く、腎移植を決心しました。
 移植日当日、朝から友人や親戚が駆けつけてくれました。でも、2日前から飲み始めた、免疫抑制剤の副作用で、具合が悪くって、最初に母が9時頃に手術室に運ばれていきましたが、見送ることが出来ませんでした。でも20人くらいの仲間に見送られて元気に出発したと聞き安心したのを覚えています。それから1時間半たった、10時半頃に今度は私が手術室に行く番になりました。具合が悪かったのですが、見送りに来てくれた人が安心するように笑顔で、「じゃぁ、行ってくるからね〜!」と元気に出発しました。手術室の前では友人が待ってて送ってくれて、私が手術室に入るまで見送ってくれていました。
 手術室に入ってからは、点滴をしたり、血圧計を腕に巻いたり、心電図をつけたり・・・手術の準備がドンドン進んでいきました。ドキドキしながらその様子を見ていて、マスクが口にあてられ、酸素が流れてきて息をしてたら「麻酔はいります。」という声がして、急になんとも言われない匂いの空気が入ってきたのを感じました。「これが麻酔だなぁ・・・何秒我慢できるかなぁ?」って思って数を数えたのですが、さすがに覚えているのは「3」秒くらいで後は気がついたら無菌室に入っていました。
 戻ってきたのは夜の9時頃だったそうです。私の場合、移植後なかなか尿がでなくて5時間くらい経った頃にやっと少しでてきたそうです。それで念のためにCAPDのカテーテルは抜かずに、残した状態で手術は終わり、様子をみることになったのですが、やはり尿が思うように出ませんでした。それでも点滴は沢山やるので、その分の水分が体に溜まるにいいだけ溜まってしまい、急いでCAPDをやることになりましたが、私は具合が悪くて身動きがとれないし、先生達はCAPDの機械の操作が分からなかったので、母が術後まもないというのに透析の準備をしに無菌室に来てくれていました。CAPDを始めたら、少しずつですが体に溜まった水分が抜けていき、少しずつでしたが体のむくみが無くなっていきました。そして足には血栓が出来ないように機械?のようなものがつけられていて、足を締めたり、緩めたりしてて、それで常に足が動いてるような状態にしておいたそうです。無菌室には1週間入ってるのですが、その間水分はほとんど取らずに食事も全く取ることができずに吐き気と下痢の嵐でした。それがとにかく辛かったのを覚えています。
 無菌室の1週間が終わり、次に個室に入りました。ドナーの母は1週間で退院ですが、私の具合が悪かったのと、CAPDの準備をしなければならないのもあって、退院はしたものの家には帰らずにずっと一緒に個室に泊まっていてくれました。本当は退院前に腎生検という腎臓の細胞を採取する検査があるんですが、私の場合尿がいい感じにでなかったので、移植後1ヶ月もたたないうちに腎生検をしました。 結果、今は尿量が本当にすくないけれど、1ヶ月くらいしたら、でるようになるとのことでした。私は内心「本当かなぁ・・・?このまま、CAPDがまた続くんじゃないのかなぁ?」と思っていました。
 それから 1ヶ月ちょっと経った頃に少しずつ尿の量が増えていきました。 1日ごとに少しずつですが、目に見えるように増えていったので、「あぁ、本当に先生の言ったとおりだ!」と思いました。
食事の方は、相変わらず取れずに、何日か経って、足に力が入らなくなってきました。
「あれ?」と思って立とうとしたら立てなくなっていて、ビックリしました。どうやら食事もろくに取ってなかったせいでビタミンBとかがなくなって、神経内科の先生に診てもらったら、抹消神経がおかしくなったようでした。 車椅子に移るときも、トイレに行くときも、何もかも看護婦さんや母に手伝ってもらわないと何も出来なくなり、どうなってしまうんだろう?と思いました。 足だけではなく、手もおかしくなって、文字も書けなくなりました。 それから点滴にビタミンをいれてもらって、少しずつですが回復していき、だんだん文字もかけるようになり、足のほうもリハビリに通いながらでしたが少しずつ良くなっていきました。車椅子生活が2ヶ月くらいになった頃には、誰の力も借りずに一人で車椅子に移動とかトイレとか行けるようにもなり、ベッドの周りならゆっくり歩いたりもできるようになりました。2月には杖で歩行が可能になり、やっと退院できました。約7ヶ月の入院生活でした。
私が今思うことは、移植して本当に良かったと思っています。今までCAPDの時間ばかり気にしていたのがなくなって、食事の方もそんなに制限もないし、今までとは違う生活がはじまりました。母や姉に移殖後は前からお喋りだったけど、益々お喋りになったし、イライラしなくなったと言われました。実際、今まで自分自身が気づかないストレスが溜まっていたのに、いつの間にか、そのストレスが無くなって精神的にも開放された部分が大きいんだなぁと、改めて実感しました。せっかく母からもらった腎臓が少しでも長く持ちますように・・・・

40代・男性

平成15年5月11日、男鹿市門前の沖合にある福立島、おいらは約10ヶ月ぶりに磯に立っていた。腎移植後、初めての磯釣りである。ねらいは黒鯛。
身体がヘロヘロになり、黒鯛は一枚も釣ることができなかったけど、とても幸せな気分だった。やっと帰ってきた。やっと、こうして磯に立てるようになった。それだけでその日は十分だった。
前年の9月5日、おいらは椿沖で船釣りをしていた。真鯛を1枚釣り上げ、刺身にして食べた。その夜、腹膜透析のバッグ交換時に排液の異常に気がついた。濁っている。今までそんなことはなかった。そのうえ、何かしら寒気がしてきて、腹部にも 違和感がある。
「やっ、やばい!鯛のたたりだぁぁぁ!」
翌日、日赤に入院していた。CAPD腹膜炎を発症したのである。おいらの腹の中は緑膿菌に冒され、高熱と腹痛は1ヶ月近く続いた。痛み止めを注射してもわずかの時間しか効かず、1日に使用できる限界まで射ってもらった。朝は肩、午後からは「お・ケ・ツ」と・・・ あれは痛いぞ!
そしてついに、カテーテルの出口からは透析液が漏れ出てきて、CAPDをあきらめ血液透析に切り替えた。先にシャントの手術。数日後、カテーテルを抜く手術。これは痛かった。局部麻酔で行ったが、癒着があり、けっこう時間がかかった。いや、かかったように感じた。麻酔も効かなくなり、執刀したドクターFと意地の張り合いみたいな手術だった。
「まっ、まだ、かかりますか」
「うーん、癒着があってねぇー」
「先生、マッ、麻酔が効いてませーん。イッ、痛いですぅーーー!!」
「前の傷の所だから、効きにくいのかもな。もうちょっとだから」
「先生、も、もうちょっとが、長すぎますぅーーー!!ぐっ、ぐうぅぅぅ・・・」
「うーん、これからは、カテーテルの抜去は全身麻酔でやろうか」
「えーーー!今、切っているおいらはどうなるのよ???」
身体に力が入りっぱなしでの1時間強の手術であった。この時つくづく感じたね。手術は体力だって。
さて、そんなこんなで50日間入院していたおいらも、やっと退院を迎えることになった日の前日、10月24日、主治医のY先生が部屋にやってきて告げた。
「大学病院の佐藤先生から連絡があって、移植を11月にやりたいんだけど、受ける?」
一も二も無く、受けることに決めた。移植手術は年を越してからの予定だったので、それまでは男鹿みなと市民病院で透析をしながら待つことにしていた。日赤を退院したら、すぐにその足でみなと市民病院に入院することにしていたので、てんやわんやの退院であった。Y先生は退院療養計画書を書き直す羽目になった。担当のK看護師(とてもかわいい)も次の病院への引継書類を書き直すことになった。
おいらは、今でも先生が書いてくれた退院療養計画書を家に貼ってある。

《退院後の治療計画》
11月中旬までに大学病院に移って移植を待つ。
腹膜炎は治癒。
食事療法を続ける。
移植後、早めに体力をつけて完全社会復帰を果たす。

今でも、Y先生の書いてくれた計画書を見ると涙が出てくる。
大学病院に入院したのは11月6日、手術日は11月19日。若干の不安はあったものの強気で通すことに決めた。手術前のアンケートには「心配御無用」と書いた。なんのこっちゃ!自分でもよくわからない。
親父が先に手術室に入っていった。見送るおいらは、なんとも複雑な気分だった。
とにかく無事で終わってほしいと願っていた。
無菌室で目が覚め、少し落ち着いてきたら、泣いたね、本当に何回も泣いた。腎臓をくれた親父、2度目の命をくれた親父に、なんと言って感謝していいかわからなかったけど、とにかく涙が出て止まらなかった47歳のおいらであった。
術後に1番まいったのは、おしっこの管っていう奴。あれは痛い。今思い出しても、○○○○が縮み上がるよ。まあ、それ以外はほぼ順調に経過していった。このまま行けば、年内に退院できると思っていたが、そう簡単ではなかった。魔の手が忍び寄ってきていたのを知る由もなかった。約1ヶ月後、腎生検の結果が出た。見事な拒絶であった。おいらの身体が親父の腎臓を侵略している!なんということだ!あれだけ移植した腎臓の上をなでて、「この腎臓はおまえを作った親父のもの、仲良くしなさい」って言い聞かせていたのに!まったく、なんてこったい!
それが、暮れも迫った12月27日のことだった。もう、完全に退院するものだと思っていたから同室の人用にプレゼントまで買っていたよ。
というわけで、大晦日、正月は病院で過ごした。今まで出たことのないような病院食、二の膳まで付いていた。食べ物に弱いおいらは、年末年始の入院も悪くないなと思いながら9日間の点滴。クレアチニンの値が元に戻った。その後、2回の外泊をして様子見。だけど、またまたクレアチニンが上がりだして遂に2回目の腎生検をした。1月25日に出た結果はやっぱり拒絶!再びステロイドの点滴。これは効いた。効きすぎて、抗体が失われ、なんとサイトメガロウィルスにやられた。強烈な下痢と発熱。今度は連日デノシンの点滴。この頃がもっともブルーな期間だったな。永遠に続く苦しさはない。そう信じて、いつも笑っていようと思ってはいたけど、後で手術した仲間たちが退院していくと、やっぱり複雑な気持ちだったね。でも、同じ移植者達と1番楽しく過ごせた時期でもあったかな。長く入院していたおかげで、先生や看護師さん達とも親しくなったなあ。みんな美しく見えてくるのはなぜだろう。婦長さんまで・・・ン? ホント、感謝しています。また入院したらよろしく!
さて、2回の拒絶を出して(親父と息子というのは、なじむまでに時間がかかるのだ!)、ようやく退院したのは2月24日。職場に復帰したのが4月1日。
そして、ライフに復帰したのが冒頭の平成15年5月11日。
そう、おいらにとって「生きているっていうこと」は、「釣りができる」ってことと同義なのだ!
2週間後、おいらは再び門前の「おんべ島」に立った。1枚の黒鯛を釣り上げた。
ついにおいらは生き返ったのだ!
今度は黒鯛のたたりがないように!

40代・女性

24歳に慢性腎炎と診断され、44歳の8月から、3ヶ月間の血液透析を経て、平成14年11月26日、生体腎移植をしました。
 ドナーは実父で66歳。過去1度も入院経験がなく、健康そのものの父の身体にメスを入れるなんて「親不孝な娘だ」と悩みましたが、父母の愛情と、夫や子供のために、又、自分に自信を持てる様な健康な身体になりたいと思い、移植を決心しました。
 移植日の2日前から免疫抑制剤を飲み始めた時、副作用のためか膀胱の痛みで苦しみました。レシピエントそれぞれ何かしら抑制剤の副作用が表れるし、また全然出ない人もいると事前に聞いてはいましたが、私のように膀胱に痛みが出たのは初めての様でした。
 手術日まで痛みは緩まず、そのまま手術室へ。父は午前8時30分〜午後2時30分、私は午前10時〜午後4時頃までの順調な手術だったそうですが、術後の無菌室に入って間もなく膀胱の痛みで意識が戻った私は、主治医に、あまりの痛さで暴言を吐いてしまうほど混乱していました。それが、後になって笑い話になるとは、思いもよらない事でした。
 そんな痛みも主治医がおっしゃる通り、免疫抑制剤の量が減ると共に無くなりました又、私の場合、移植後食事を摂るだけで出ていた尿検査の糖も、7ヶ月目ぐらいでプレドニンという薬が朝1錠だけになると、まるっきり出なくなったのです。
 気になっていたドナーの父の身体も、手術前と同じ様に農作業が出来る程で、ほっと胸を撫で下ろしています。出産経験のある私としましては、本当に「あんずるより生むが易し」でした。
 約2ヶ月の入院中、拒絶反応もなくサイトメガロウイルスの抗体も無く、入院後半は快適な時間を過ごせたのに、退院後、腸炎で直ぐ再入院とおまけ付きでしたが、移植から1年が過ぎ生活サイクルも落ち着いた今、改めて、滋先生、泌尿器科の先生方、看護師さん達への感謝の気持ちの一杯です。又、友達になってくれた移植のみんなにも。入院中の不安や悩みを解消し、励ましてくれました。そして家族。移植をして元気になりたいと思うのは、家族や身内が自分を必要としているからです。
 そして、いくら強がって頑張っても一人の力では出来ない事を改めて知り、今まで心配をかけた分、明るく生まれ変わった私で日々を生きたいと思っています。

30代・女性

平成14年6月25日、私は 2週間後にやってくる30歳の誕生日を前に 一足早く父からかけがえのない夢のような贈り物を手にした。それまでの医学では 家族に血液型適合者のいない私には生体腎移植は手の届かないものだったから。だから、唯一の方法は献腎移植であったし、15年間の透析生活はそれが微かな望みだった。遙か遠くにある手の届かないものだと思いつつも・・・ 
こうして医学の進歩に期待しながらも、幼い頃から「病院っ子」で育ってきた私に、ABO不適合でも移植が可能になったというまさに夢のような事が起こったのだ。でも、父の体に傷をつけてしまうことを考えると手放しで喜べるものではなかった。O型の私がA型の父から移植を受けるにあたっては、移植前に ABO不適合という事も含め3つ程リスクを挙げられた。人一倍怖がりなのですごく不安だったのだが、それ以上に「希望」の方が大きく、なによりもそんな私の背中を押してくれたのは、「がんばってやってみよう。」と言ってくれた父の言葉と、「たとえ5年10年後に透析に戻らなければならなくなったとしても、決してその5年10年は無駄ではないんだよ。」とおっしゃった佐藤滋先生の言葉だったように思う。
案の定 私の移植手術は大変だったようで、朝8時半に手術室に入り、出てきたのは夜10時近くになっていたという。更に大変だったのは(自分では ただただ苦しいだけで何も分からないのだが)、次の日になって移植した腎臓が動かなくなり、取り出す手術をしなければならない状態になってしまったことだ。私は父の涙を見たことがないが、その時の父は家族と共に号泣していたそうだ。ところが、腎臓よりも命の方が大事だと家族も諦めていた中、父の想いのこもった腎臓はまた動き出してくれたのだ。30歳の誕生日は苦しみの真っただ中だったが、主治医の先生方や大部屋の皆が届けてくれたお花と言葉は私を久々の笑顔にしてくれた。皆に心配をかけ、その後も様々なことがあり、もう元気な自分には戻れないのではと思う程苦しんだが、1ヵ月後にやっと大部屋に戻ることが出来、その数日後には以前のように大声で笑っている私がいた。
透析をしなくてよくなった今、その分の時間ができ、嬉しさと共に時間の貴重さを感じ、その使い方というものを考えさせられる。15年間の透析生活も、その時その時に精一杯向かい合ってやってきたし、無駄な15年だったとは思いたくはない。その15年があったからこそ、「透析に縛られないことの有り難さ」を深くかみしめることが出来たのだと思っている。
現在 何も問題がないとはいえないが、一度は危なかった父から贈られた私の3つ目の腎臓が、親身になってくれた先生方、看護士さん方のお陰で、こうして動いてくれていることの幸せ。私は それに愛しさと願いをこめて「パパ腎臓」と呼んでいる。パパ腎臓は時々チクチクと痛んだりする。そんな時は、パパ腎臓が「無理するなよ」と言っているような気がして私には良い警告となっている。
父からは 腎臓だけでなく、大事な何かを貰った気がする。それは うまく言えないけれど、確かに 私の中に温かく広がっている。そして、それが「心のゆとり」という形になって、以前よりも 思考・行動の上で選択の幅を広げてくれているのかもしれない。 先日、移植時に父の向かいのベッドに入院していて、私をいつも励ましてくれた人が、1年半の間 癌と闘い亡くなった。自分の寿命を知った上で、自分自身と向かい合い、癌と向かい合った強い人で、私に「生きる姿勢」を身をもって示してくれたこの先もずっと心に残る人。そんな移植により知り合った様々な人達との出逢いも父からの贈り物のひとつ。自分を支えてくれている「人と人との繋がり」を再認識しつつ、父に感謝。私の周りの全ての人に感謝。

40代・男性

腹膜透析を始めたのは、娘が小学校入学を控えた12月でした。子供たちと良く風呂に入っていたので一緒に入れなくなったことを話すと、娘が言いました「いつになったら一緒に入れるの?」

平成14年1月通院先で血液透析に変えた方が良いと告げられ、翌月秋田大学医学部付属病院に血液透析導入のため入院しました。そこで初めて先生から移植を進められたのですが、移植は最後の手段と思っていた私は話を聞こうとしませんでした。ところが、病棟にいる移植者、ドナーを目の当たりにするうち退院する頃には移植の説明をお願いするようになっていました。
しかし、そこで献腎移植の現状は全く悲観的なことを知りました。
退院後夜間透析と仕事の生活は大変でした。体が慣れないためなのか具合が悪くて夜中に目を覚ますことも度々でした。見かねた妻が「最後には私がドナーになるから」と生体間移植を躊躇する私の背中を押してくれたのです。兄2人妹2人が離れ離れに住んでいるため、手紙で長兄に事情を説明しました。手紙が届いた頃すぐに兄から電話がありました、「今すぐにでも俺の腎臓をやるから大丈夫だ、何も心配するな」と、私はもう声にならずただ電話口で頷く事しかできませんでした。
電話の後兄夫婦の気持ちのありがたさと同時に人を傷つける罪悪感、自分の弱さ、自分への嫌悪感が噴出してきて号泣し、しゃくりあげながら「自分にそこまでして生きる価値があるんだろうか」と妻に訴えていました。
最終的に上の妹がドナーになってくれることになったのですが、ずっと悩んでいました。
4月暫くぶりに兄弟夫婦が揃いました。母が亡くなったからです。動揺し混乱する気持ちの中で、今しか無い、皆に感謝の思いを伝えなければ、と思っていたのに何も言えず、逆に心配され励まされるばかりでした。そんな皆に会って移植に向かって行く前向きな気持ちになることができたのです。
10月8日移植手術、同時に腹膜透析のカテーテルも抜きました。術後は肝機能が一時悪化したり拒絶反応がでて退院が延びたりしましたが、全寮制の移植学校に行っていた、そんな濃い3ヶ月でした。移植していれば無かったかもしれない心不全や、脳出血、副甲状腺手術も、ドナーに負担の少ない内視鏡手術が県内の病院でできるようになっていたことも、その他全てのことがこの日のために必要で準備されて来た、そして最良の手段である移植に辿り着くことができた、今はそんな気がして感謝の気持ちでいっぱいです。

退院して、私「もう一緒に風呂入れるようになったんだけど...」
娘「(一瞥して)何言ってんの!」
娘はもう21歳になっていました。

50代・女性

2002年(平成14年)5月30日
秋大から「移植について」の件について電話が有り、初めて母、私、主人の3人で病院の泌尿器科外来へ行く。しばらく待たされてから移植を担当している佐藤滋先生にこれも叉初めて面会する。想像していた通りの好感の持てる、話しやすい先生という印象だった。秋田県腎臓病協議会の役員さん達が「いい先生だから」「早く移植をしてもらった方がいいよ」と進めてくれていた意味がわかった。初めての面談のせいか移植については大雑把な内容しか話さず、ドナーの気持ちを大切にすること、ドナーとしての気持ちをしっかり自覚してもらわないと困る等々、ドナーに関しての話が多かったように思う。そして先生は娘さんの身体を良くすることはやがて家族にとって結果的に良くなるのでないか、つまり年老いた母の世話を見てやれる事になる、このままの状態だと二人共将来が不安でないかとも言った。血液検査の結果、多分適合するだろうと過程して、手術日の日程を決めてしまおうと話は進む。先生の手帳は12月まで全部手術日が決められていた。月に2回、第2と第4火曜日が手術日ということだったが最近突然のキャンセルが有り8月27日はどうだろうという話になり私達は一瞬戸惑ったが12月の寒い冬よりは暖かい方がいいし、それに母が年老いているので少しでも早く行った方が良いのでは、息子も夏だったらフランスから帰って来てくれるし手術した私達の看病をしてくれるだろう、と相談の結果その場で8月27日(火)に手術日決定。いよいよだなと思う。私とドナーである母の血液採血を1人10本位?採る。

6月27日 
10日ほど前に行った母の尿の潜血の原因がわかった。内視鏡で膀胱を見たが膀胱はきれいだと言った。膀胱から尿管が出ていてその近くに口びるのような物があってそこからの潜血であるとの事、佐藤滋先生は、これは大したことがないから大丈夫であると言い移植には関係ないと話してくれたので安心した。
母の検査入院の件について話が出た。7月4日(木)〜9日(火)まで、検査内容についても教えてもらう。母は移植ドナーとしての手術の件で不安と恐怖とでストレスになっているのがわかる。家の中で沈黙と暗い表情をしている事が多い。はっきり言わないがいろんな言葉の端々に(不安だと言うことが)出てくる、73歳の今まで風邪以外大きな怪我や病気、まして入院などしたことがないのだから無理もないだろうが、不安で恐ろしいのは母だけではない、私だって拒絶反応と言うものがどういうものか、どういうふうに出てくるのか、さっぱりわからない。母と同様漠然とした不安でいっぱいだ。
術後3ヶ月間の入院が必要と主人は言っていたがあまりにも長すぎる。母の退院後の事が気になる。

7月27日
いろいろ長い間お世話になったかかりつけの歯科医小沢先生が秋大の口腔歯科外科の先生といろんな話をしている中に、私の移植の話が出たそうで2人の先生の相談の結果、秋大の口腔歯科に診てもらうことになったと話す。虫歯が1本有るが抜くか抜かないかは秋大の先生の指示に従ってくださいと言われ、秋大の口腔歯科医M先生へ紹介状を持って行く。小沢先生曰く歯は移植にとって大変大事な部分であり、自分達(歯科医)も月に1度は勉強会や研究の為に上京して勉強しているので移植チームと組んでやった方がいいと話してくれた。叉、移植後元気になったら口腔内を見せに来てくださいとも言われた。透析中どうしても口が渇く為会話がしづらくなる事がありあめ玉を離されないことを話した時、口の中の唾液の検査をしてくれたことがあったり、外国産のゼリーのような薬を塗ってくれたりと心身になって考え相談にのってくれた先生でした。叉組合病院の皮膚科の先生にも移植することを話したら「そう良かったね、移植後のかゆくなくなった背中を見せに来てね」と言われた、皮膚科の先生もずいぶん「かゆみ」について心配してくれた。ありがとう。

8月13日 
私の入院日。病院内総合受付で手続きをすませて2階西病棟、泌尿器科205号室6人部屋へ入院する、それとなく聞いていると皆さんそれぞれ大きな病気を持っているようだ。入院初日なので病室に慣れず・・・。今回で私の入院回数は腎臓病と言われてから何回だろう。1回目は、息子が生後4ヶ月から約1年間。2回目は、扁桃腺肥大の為手術しようかどうかの検査入院。3回目は、腎生検24時間安静。4回目は、骨生検。5回目は、シャント造り。6回目は、シャント造り、(あまり血流が良すぎて血管を結ぶ)。7回目は、副甲状腺手術。

8月14日
今日は秋大で初めての透析日、緊張する。穿刺針をする前の処置や穿刺針を抜く時、抜いた後の処置の方法が組合病院とは違う、最後の処置は自分で押さえているのだが丸い白チョークを立切りにしたコルクのような堅い物(まくらとよんでいた)で針の抜いた後血管にそってきつく押さえテープで固定する。帰り支度をしてから(まくら)をはずし、カットバンを貼って終了。透析室は人手も有り全体的に丁寧で清潔であると思った。

8月15日
いよいよ検査が始まる。

  1. 糖尿の検査、炭酸の入った甘い飲み物200CC位を飲む、その後時間ごとに採血
  2. 歯科検査、奥歯抜歯後の治りが遅いといわれる。ブリッジは欠けた所を一時的に直す(今から型を撮っても移植手術日に間に合わない)と云うことで今までのをはめ直してもらう、明るく話しやすいN先生。
  3. 心臓のエコー、私にもテレビモニターで何となく心臓が動いているのがわかる。
  4. 肺の検査、初めての経験、検査室はパソコンだらけ、係の女性はキャリアウーマン、ぴったりの雰囲気の美人さん。足の爪にはペディーキュア、しかも紫色驚いた。
  5. 眼科、いろんな順序に従い、既定道理の検査を受ける、移植後落ち着いたら白内障の手術をしましょうと云われる。
  6. 心電図
  7. 胸のレントゲン
  8. お腹のレントゲン
  9. ツベルクリン反応など

その後看護婦さんから諸々の説明を聞く、手術に用意する物品用品の用紙をもらう。(術後の拒絶反応について周囲の人の話など耳にする) 

8月17日
透析が終わってから外泊することになり息子が病院まで迎えに来る、たった四日間家に居なかっただけでもなぜか懐かしい、透析日だったのでいつもと同じようにダラダラ、ゴロゴロ、身体を掻いてみたりなどして周囲を巻き込んで落ち着きがない、台所では母が夕食の支度、手伝えばいいと思うが透析日は身体がどうしても動かない、母には申し訳ないと思う、54歳の娘の為に73歳の親が必死で頑張っている。

8月18日
透析日の次の日は身体は快調、午前6時に目が覚めて室内を片付け自分の部屋、寝具類などを片付ける、階下に降りて朝食の支度、主人はどこへ行ったのか8時になっても帰らない、お腹がすいているはずなのに・・・。その後、一日中、洗濯、シャンプー、息子の東京行きの準備など忙しく過ごす、4時半に家を出て病院へ、ついでに息子を秋田駅まで送る、新幹線自由席乗り場はすでに行列が出来ていた。

8月19日
今日は胃カメラをする日、朝食その他一切口に入れず、検査室から連絡が入ったのはお昼の12時を過ぎていた、検査の結果小さなポリープが見つかり、内視鏡で切り取り組織検査に回したと聞き驚いた、良性なら順調に移植手術が出来るのに悪性だったら「ガン」という事になり1年間手術延期だという、この検査結果は1週間後にわかるらしい。胃の中にポリープが見つかって手術が出来るか否か不明なのに佐藤滋先生はABSテレビ放送についての話を持ちかけてきた。「腎移植について世間ではまだ関心も薄く、あまり知られていない、移植の素晴らしさをもっと多くの人に知ってもらいたい、そのために多くの講演をして歩いているのだが、マスコミの力が1番大きく影響を与える、ABSテレビでは1年間に渡って移植前と移植手術、そしてその後の経過を追って変化を撮りたい」との話。そして私達親子の移植手術中の撮影をさせてほしい、顔はもちろん名前その他プライバシーに関する事は出さないという内容で協力して欲しい」と。先生の説明を理解したうえで、顔も名前も出さないということで承諾をする。「どうして私達なのかの問いに「誰でもいいが放送する時期に丁度合致したので」だそうだ。レシピエント54歳、ドナー73歳どちらも秋大腎移植始まって以来の高齢者だそうです。

8月20日
 主治医が3人いてリーダーはM先生、その他H先生とT先生、その3人が私の所に来て眼科医から連絡が入り、移植するとステロイド剤を使用するので視力に影響し白内障が進むので術後必ず白内障の手術をしてくださいとの連絡がありました、と報告に来てくれた。明日の検査は膀胱検査と大腸のファイバースコープ検査。大腸は午後の検査、朝食、昼食と食事はないとのこと。

8月21日
 大腸検査、昨夜下剤を1本飲んだが今のところ効き目なし、朝2000ccの水を飲んで腸内を綺麗にしてからの検査だという。ところが透析患者だという事で2000ccの水は飲まれないということで半分の1000ccを飲まされる。その他に水溶性の下剤を1瓶全部飲まされる。しかしお腹はビクともしない、朝の7時頃に飲んだにもかかわらず9時10時になっても便は出ない、水溶液を肛門から入れる(浣腸かな)間もなくトイレに行きたくなったような気がするがそれっきり。待ち時間が長引いて検査室からお呼びがかかったのは午後4時、まだトイレに行ってない、検査着に着替えてベッドに横になる、ファイバースコープを肛門に入れた瞬間トイレに行きたくなった、便がやっと近くに来た感じが自分でもわかる、その時検査をしていた先生が思わず大きな声で「先生直腸から・・・まで固形物があります!」「先生○○○にも固形物があります!」、それから2人の先生の話し合いがあって無理するな、ということで途中中止になった。(検査は10分位で終わる)移植手術が終わってから調べましょうということになる。(固形物とは、つまり便のことである)今お腹がゴロゴロしているがまだ便は出ない、午前中飲んだ薬が今頃効いてきているのか効き目が遅い。午後4時半頃から9時半頃の間に5〜6回トイレに走る。水溶性の便が出ること出ること苦しいやらお腹が痛いやら。

8月22日
 今日は透析日、最近透析中かゆみとイライラが重なってどうしようもない、思い切って透析時間を30分短縮してくれるよう頼んだらOKが出た、体重も増えていなかったからだと思う、身体のかゆみは最近特に激しいように思う、頼めば看護師さん達は心良くタオルで拭いてくれる、さすが看護師さんだけあって皆さん拭くのが上手、力を入れて心ゆくまで拭いてくれるので心地よい、しかしそれがだめだった、気持ちいいと思って、おもいっきりこすってもらったのが今は背中が痛いのと、かゆいのとでどうすればいいかわからない。
 生態腎移植表(○○△△)の計画表を渡された。カラーコピーされた1日の飲み薬、点滴本数等など時間帯ごとに詳しく計画された表である、あくまでもこれがモデルケースであると云った。

8月25日
今日から免疫抑制剤(朝9時と夜21時)を飲み始める、免疫抑制剤を服用すると個人差があって隣のベッドのMさんは身体がグッタリして何にも出来なかったそうだ。私はなんの変化もなくまったく普通の状態で良かった。今13回採血をやっている。朝9時から始まり翌日の朝9時まで,9時、10時、11時、12時、15時、18時、21時、22時、23時、0時、3時、6時、9時、明日でいよいよ透析が最後の日となる。

8月26日
手術前日、朝から身体が寒くてゾクゾクする、風邪をひいてしまったのかと不安になる。寒くなったり、暑くて汗が出てきたりと、それらの繰り返し、熱は何度計っても36度、これだったら気持ちのもち方精神的なものだと割り切って今日のやらなければならない事をしよう。昨夜の13回の採血もあって眠い、珍しく朝食も進まない、でもシャンプーもシャワーもしなければならない。手術室、無菌室へ持って行く物も準備しなければ・・・でも相変わらず身体がかゆくて何にも出来ない。秋大へ入院してからも、かゆみには悩まされてきた、夜中は見廻りに来る看護師さんに必ず背中を拭いてもらったし我慢出来ない時はナースセンターへ行って頼んで拭いてもらったりしてきた、母がドナーとして入院してきてからは、1日に何度も「母さんふいて」とタオルを持って走って行った。 昼食を終えてすぐ透析室へ、12年間の透析が今日で終わる。信じられない、移植することで身体の中にカルシューム、リン、その他の毒素が溜まらなくなると思うとうれしい。今までは目に見えない毒素が身体の中にしんしんと溜まっていくのが恐ろしく不安だった、(外見は普通の人と変わりはないが?)でもそれも今日で終る。本当に別人になるような気がする、透析を始めた頃(平成3年)看護婦さんに「○○さん第2の人生だよ」「生まれ変わったのだよ」と言われたがピンとこなかった、12年間もの透析生活、第2の人生というよりも大事な本当の人生だったと思う。シャントは順調だったし、全国腎臓病大会も、沖縄県、島根県へと行ったし、階段を登れない、ひざを折れない、あちこちが痛いと訴える人に比較するとかゆみ以外はこれといった痛みもなく恵まれた12年間だったと思うが・・・。明日の手術に向けて早く寝よう、明日から久らく日記は書けないと思う。

8月31日
手術日から5日になる、いろんな事があった、順を追って書いてみる。
 手術が終わって何時頃無菌室に帰ってきたのか自分ではわからないが家族の話では夕方5時頃と言っていた。看護師さん達が「早い」と言っていたとか。時間はわからないが背中がかゆくてたまらない、麻酔がまだ切れていないのにハッキリわかる、これも後で聞いた話だがあまり背中が「かゆい、かゆい」と言うので看護師さんは数回背中を拭いてくれたとか、T先生も私用のブラシで背中をこすってくれたとか。そうする事で落ち着いて寝られたようだと。次朝、佐藤滋先生が「かゆみどう」と聞かれた時「今はかゆくないです」と答えたが心の中でそのうちかゆくなるだろうと思っていた。手術当日早朝から普通の人並みに浣腸や下剤薬を使用したが効果がなく一抹の不安を抱きながら手術室へ向かったのだが術後の次日、1日3回、朝昼夜と多量の便が(3日分)無菌室のベッドの上でドレーンだらけの私を襲った、生まれて初めてベッドでの排便、しかも多量なので無菌室担当のT看護師さんには恥ずかしさと申し訳なさで一杯だった、どんな処置をするのか手間がかかるだろうと思っていたがそれなりの処置法があるのだろうか、手際よく、(私の方も気持ちよく)いやな顔せずさっさと片付けてくれたのにはさすがと思った。
手術後私にとって1番辛かったのは術後2日目の夜精神的なイライラが強く安定剤の注射を2,3回打っても眠られずT看護師さんは精神を安定させる為だと思うが夜中ベッドに寝ながら足浴をやってくれた。これも初めての経験だった、ベッドに寝ながらお湯に足を入れてT看護師さんは足の指を1本1本もみながらさすってくれた。とても気持ちがいいが申し訳ない気持ちの方が強かった。
 私は幸せなことに術後の痛みはほとんど無かった、ドナーの母も術後の痛みは無かったが麻酔がなかなか解けず家族は大部心配したようだ。母は寝てばかりいないで歩きなさいと言われたそうで1日3回は無菌室の私の所に来てくれた。術後5日目の今日私は初めてベッドの脇に立つことが許された。そして心電図が外される。膀胱と腎臓にはまだドレーンが3本入っている、首にも2本、これらは全部数日には外されるという、そうなれば無菌室からも出られるだろう、無菌室は一人ポッチで話し相手も居なくて時間の経つのが遅い、これもまた辛いことの1つである。

9月3日
 今日は無菌室から出る部屋移動の日、風邪ひきの居る部屋へ行きたくないと思うのは当然だ。部屋移動の係の先生に頼んで空いている回復部屋に入る、夕方主治医のM先生が歩いていますか、ゆっくり、ゆっくり慣らして無理しないでねと優しい言葉、母は予定通り術後1週間で退院して行った。疲れるらしいが私にとってはひとまず安心、母が元気で退院出来たのが何より良かった。後は私が頑張るだけ。2人部屋に移ってなぜか気持ちがほっとした。昼食も夕食も美味しかった。

9月5日
 ABSテレビ、夕方6時プラス1のニュースに私たち親子の移植手術の映像が入るからと看護師さんが教えに来てくれた、画面を見ているだけで興奮してしまい、ナレーションや佐藤先生の話にまで気持ちが向けられなかった。組合病院の腎友会会長、副会長、友達がお見舞いに来る、ベッドの上に起きているのを見て驚いていた。

10月3日
腎生検をして結果が良ければ近々退院と云うことだったが11日に出た結果は予想外のものだった。私の知っている周囲の人々はほとんど腎生検の結果が良好で早々と退院しているのに、母からもらった腎臓がすでに腎炎になっているという。その他にもバイ菌が入ってきて暴れているという。早速、次の日から治療が始まった。3日間の点滴と飲み薬(パルス療法だという)強い薬のせいで、むくみ、身体のだるさ、食欲不振の状態が続く。今まですべて順調だと周囲に言われながら今回の腎生検の結果を聞いて正直言ってショックを受けた。私が元来持っていた腎炎はよほど強い力を持っていた腎炎だったのだなと思う。〔10月7日〕腎生検の結果が出るまで1週間以上日数がかかるので外泊許可をもらい家に帰ってくる。久らく歩いてないので足が疲れる。病院に戻るころは両足首のアキレス腱が痛くて歩けない。

11月3日
 待ちに待った退院。しかし退院2、3ヶ月後2度目の腎生検をやるそうだ。

☆2003年 退院・その後
1月8日
予定されていた2度目の腎生検の為の検査入院。結果はまた良好でなく2度目のパルス療法治療3日間する、退院間近にして左側耳の近くに激痛が走る検査の結果、帯状疱疹。首の後ろに出る。1週間後退院。
2月2日
 再び帯状疱疹が出る。今回はひどい!2週間、身動きがとれないくらいの激痛が首、肩、腕、指先と神経を走る、皮膚科も泌尿器科もベッドが空かず入院出来ない。これ程ひどい帯状疱疹はあなたが2人目ですと皮膚科の助教授。
2月14日
 泌尿器科、特別室へ緊急入院隔離する(帯状疱疹の為)皮膚科と、帯状疱疹の痛みを取るため麻酔科外来へ毎日通う。相変わらず足の具合が悪い。この頃からカルシューム値が高く午前と午後2回注射が始まる。(カルシューム値があまり高いと言語障害を起こすのだとか)
4月8日
 カルシューム値が下がらず、右腕に移植してある副甲状腺を取り除く手術をする。(六年前副甲状腺を四個摘出手術してあるのにもかかわらず再びカルシューム値が上がってきていた)
4月24日
 左指の人差し指と中指の間に出来た潰瘍が少しずつ大きくなってくる。痛みも強くなっていく。直っていく様子がまったく見られない。皮膚科の先生、泌尿器科の先生方も"シャント"をつぶした方がいいと言う。12年間、私を助けてくれたシャントをつぶす手術をする。
5月17日
 2月14日入院以来3ヶ月ぶりで退院。しかし気になるのは両足、突っ張って歩きにくい、ころんで怪我をしたら大変だ。
整形外科でレントゲンの結果、骨に異常なしとのこと。相変わらず歩行器が無ければ歩けない。でも退院決定。
5月24日
 退院して1週間目。家で全く立つことが出来なくなる。もちろん歩くことも出来ず膝が痛い。再び入院。リハビリと整形外来へ通う。
7月12日
 リハビリの成果が出て歩行器無しで、杖でも歩けるようになったので地元のリハビリに通うことで退院が決まる。11月に移植後退院したときよりも何故か気持ち的にとっても嬉しい退院だ。(必ず歩けるようになってやるという信念があった)
 2004年2月現在、振り返って思うことは、移植後いろんな病気や手術を繰り返し、その都度「何故私だけが何回も入退院を繰り返すのだろう、次から次と難題が出てくるのだろう」と心が沈みがちになったものでした。

しかし佐藤滋先生の自信をもった励ましの言葉をはじめ、主治医の先生、そして主治医以外の泌尿器科の諸先生や看護師さん方の暖かい言葉かけや心配してくれる優しい態度に随分安堵感を覚え不安が和らいだことは今でもハッキリ覚えています。叉同じ部屋の移植者同志の会話や情報交換なども不安を取り除く1つでもありました。そして皮膚科、整形外科、リハビリ科、栄養指導、外科、麻酔科、神経内科、口腔歯科、循環器科の先生方にも本当にお世話になりました。精神的な面で随分サポートしてくださいました。私を取り巻く周囲の方々に心から感謝しております。
 退院して7ヶ月になりますが今やっと落ち着いた生活をしています。そしてしみじみ「移植」して良かったと思っています。苦しかった「かゆみ」からも解放され、1日おきの病院通い(透析)もなく、28年間病気に対する不安から解き放された感じです、そしてあのかゆみ、(背中の中にまるで蟻が何十億も住んでいて一斉にウジャウジャ動き始める、いくら掻いても治まらない、かゆい人の中にはあまりのかゆさに爪でひっかいて傷から血を流し、下着を血で汚すという人も何人かいました)から解放されたのが信じられないです。母が健在で腎臓をもらえたことに心からありがとうと言いたいです。また透析時代、身体や顔の色黒さ、角質化した皮膚はすっかり無くなりました。どす黒かった肌は普通並に白くなったと思います。耳鼻科へ通っても直らなかった原因不明の痰の絡んだ重い咳も術後すぐ治りました。あんなにかゆかった頭のかゆみも治りました。口が渇くため常にアメ玉を離せなかった(夜寝るときも2,3個口に含んで寝ていた)のが今は唾液も沢山出るようになり、アメ玉をなめるということは無くなりました。手の爪の色がピンク色になり半月も出来てきました、入院中母の同室の人に「移植前の○○さんは、お母さんに背中を掻いてもらいに来る時の表情は必死で暗い感じがしたけど、移植したら顔の表情が明るくなった」と言われました。移植したことで心の安心感、喜びが身体全体に現れていたのでしょう。両足もすっかり治り普通に歩けるようになりました。
 今までの自分は病気なのだと大義名分のように病気にどっぷりつかって、自分以外の世間一般のことに目を向けなで生きてきたように思います。数年前息子に「目的や夢をもって生きなければ生きている価値はないよ」。と言われた言葉を思い出し、目的や夢などと難しく考えず、残された人生を自分のやりたい事楽しい事をして明るく生きていきたいと思います。そして移植仲間に教えられた
 Positive Thinkingと。

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