リ・ライフ腎移植体験談文集2より < 体験談文集 < TOP
30代・女性

私は、平成11年6月15日に母をドナーとして生体腎移植をしました。移植後の生検で軽い拒絶反応があり、3日間の点滴治療を行いました。1週間後、もう1度拒絶反応があるかどうか生検を行った結果、「今回の検査では拒絶反応は見られませんでした」と聞いてホットしましたが、最初の検査で拒絶と聞いた時は本当にショックというか、不安でいっぱいでした。もらった腎臓はどうなるんだろう?と頭のなかは、そのことでいっぱいで、1週間がすごく長く感じました。
 それから退院を待つばかりと思っていたところに、サイトメガロウイルスの抗体が見つかり、その治療が始まりました。点滴治療で抗体がなくなるのを待ち、少し長めの入院にはなりましたが、9月4日無事退院となりました。
 退院後は、外来受診で採血(血中濃度)と尿検査を行います。最初の頃は2週間ぐらいの間隔での受診ですが、徐々に週の間隔が開き、4週間に1回の受診となります。
私は移植をして丸3年になります。2年経過した頃に検査入院があります。私も検査入院をし生検を行いました。移植後初めての検査で軽い拒絶反応があったので少し不安を抱きながら検査に臨みました。結果は、特に異常もなく、経過は順調とのことでした。
 退院後1年くらい自宅で療養していました。療養中に、出来れば病院で働けたらと思い、医療事務の資格を取ろうと勉強しました。3ヶ月の勉強を終え、試験に合格しましたが、自宅近くで働ける場所もなく、思い切って秋田市に引越し、仕事を探すことにしました。秋田市内にしたもう1つの理由は、具合が悪くなったときの為です。ドナーとなってくれた母の気持ちを考えると申し訳ないとは思いましたが、元気になったからには思い切ったことを実行したいという気持ちが強く、一人暮しを始め、今は秋田で医療事務の仕事をしています。
 最初は、私も体のことが心配で仕事が出来るのか不安はありましたが、仕事を始めて、もうすぐ2年になります。仕事の内容や体調にもよりますが、透析を行っていた時のように時間の束縛もなく、経過も順調なので普通の人と同じように仕事をしています。
 母は今でも、心配しながらも応援してくれています。母、家族に感謝し、健康に注意しながら、これからもいろいろなことに挑戦していきたいと思っています。

20代・男性

平成11年9月21日、私は父から腎臓を貰い、生体腎移植を受けました。退院出来たのは、腎移植をした日から数えて、ちょうど100日目の年も押し迫った12月29日のことでした。
今になって、その間の出来事を振り返ると、生涯の友人となる様々な人たちとの出会いがあり、貴重な時だったように思います。それに、多少入院期間が延びてしまったものの、拒絶反応もなく退院することが出来たので、今まで感じたことがない喜びと達成感がありました。
とは言え、なにも私たち腎移植者の目標は退院ではなく、いかにドナーから頂いた腎臓と上手く接して生活していくかとなる訳だから、これからが大事であり、これからがスタートだとも思っています。
 退院直後の我が家の変化としては、私が月水金、透析に行かなくなくても良くなったため、それぞれが、以前より曜日の感覚が無くなっていました。私は、久し振りに行った透析室で、「みんな(透析患者)の気持ちを考えると、自分が腎移植できたからといって、喜びを思いっきり前面に出してはいけない」と教えられ分かっていたつもりでしたが、そのことをつい忘れてしまい、満面の笑みを浮かべてしまっていました。けれど、人工透析時代の約4年間、私が通院していた病院の「最年少者」だった私が腎移植を受けられたということで、みんな喜んでくれたみたいでした。
 退院から4ヵ月後には、秋田県社会福祉会館の大会議場にて、「腎移植の体験発表」をすることになり、その時は、120人ぐらいの人達の前で、自分なりに一生懸命、発表することが出来ました。その後、「腎移植の体験発表」は、腎移植のことを少しでも知りたい透析患者や献腎登録者の人たちの前で、緊張しながらも何度か行なっています。
 退院から8ヶ月後には、以前行っていた会社に、移植後始めて行きました。その時は、会社の人に急用が出来たため、臨時で配達を手伝うことになり、僅か1日の出勤でした。
けど、今では、その会社の協力を得て、毎日働いています。
 移植から1年を迎えた頃は、シドニーオリンピックが開催されていた時のことで、クレアチニンは以前として「高め安定」という状態でした。しかし、それは「現状維持」で良いことなので、今度も高め安定ながらも、現状維持を目標としていきたいと思っています。
 その後は、検査入院などで2回入院しましたが、大きな変化もなく、本当に移植をして良かったと心から思っています。

20代・女性

私が腎臓に異常があると初めて分かったのは、高校1年の時の学校での尿検査でした。それから病院で検査をし、IgA腎症による腎臓病だとの診断を受けました。疲れやすい、だるい、原因不明の発熱があると思ってはいたもののまさか自分が腎臓病になろうとは夢にも思いませんでした。
 病気の進み方が早いと言われた私は、それから移植前提でのステロイド治療を1年半ほど続けました。そして高校2年の夏休み、私は腹膜透析導入の手術を受けました。腹膜透析は、術後食事制限が大きく緩和されるというのは言葉通りでした。でも、私がこの手術を受けて最もショックだったのは、手術を受けた途端に髪の毛が一気に全部抜けてしまった事です。透析手術をしたからといって抜ける人は滅多にいないそうですが、私は抜けてしまいました。辛くて悲しくて仕方ないのに、他人にはベッドの周りに散る髪の毛に迷惑そうな顔をされ、やるせなくて情けなかったです。泣いても仕方ないのにやっぱり泣いて、母親になだめられては「気持ちがわからない!」と当たっていたのを今でもよく覚えています。それにより、高校時代はカツラで過ごし、透析をしていたので修学旅行にも当然のように行く事が出来ませんでした。でも腹膜透析の方は腹膜炎を起こす事もなく、感染症を起こす事もなくとても順調だったと思います。
 そして、学校の配慮もあり私は無事に高校を卒業し、短大に入ってすぐにいよいよという移植手術を受けました。ドナーは母親でした。移植は決まっていた事ではあるものの、やっぱり母の体に傷をつけてしまうことは申し訳なかったです。でも、自分が元気になった姿を見せる事が一番の恩返しだと信じ、母に感謝をしながら移植手術を受けました。
母共々術前の検査を受け、いよいよ手術当日。麻酔の効きやすい私は全くと言っていいほどその時の記憶がありません。気がついた時にはもう夜の無菌室のようでした。全身麻酔による吐き気が強かったです。次の日、母も大丈夫だと言う事を聞いてそこで初めて「終わったんだ…」と思いました。
私のその後の状態はというと、手術による傷の痛みもほとんど感じず(寝たきりでの腰痛はありましたが)、尿も順調に出ていました。全てがいっている、と思い2週間も過ぎた頃でしょうか、私は無菌室を出て、大部屋に移されました。しかしそれからが私の術後入院で最も辛い日々の始まりでした。
 私はアデノウイルスによる膀胱炎にかかってしまったのです。先生にも移植後これにかかった患者は初めてだと言われてしまいました。そして、菌による膀胱炎でないから薬ですぐに治す事は出来ない、と…。私は先生に言われて一生懸命水分を摂取し、尿をたくさん出す事に専念しました。一日中すごい痛みでした。膀胱炎なので、やっぱりある頻尿の症状。トイレに1番近いベッドにしてもらったものの痛くてなかなか歩けず、トイレにつくまでかかる時間は歩行器を使って15分。他の患者さんにはなんとも邪魔だった事でしょう。トイレに入ったら入ったでそこからまた動けない。お見舞いに誰か来てくれても、ベッドの周りを歩く振動、ベッドに少しでも触れられる振動に痛みは反応しました。一日中痛かったので、もちろん夜も眠れません。唯一痛み止めをうってもらった時だけが私の睡眠時間でした。しかし、その薬さえ「中毒になるから…」と言われ、徐々に減らされ、終いには止められてしまいました。そんな期間は多分1ヶ月もなかったのでしょうが、私にはとても長かったように思います。
 そして次はサイトメガロウイルスとの闘いでした。これは術前に感染するであろう事は先生に聞いていたので、大したショックではありませんでした。毎朝晩抗ウイルス剤、グロブリンでの点滴治療。でもこの期間は、私にとっては少しも辛くなく、ちょっと熱があったくらいだったので、点滴台を引っ張っては病院内を散歩するほどの元気がありました。それからしばらくそんな朝晩の治療を続け、ウイルスもおさまってきたかな?と思った頃、私は外出を許されました。久しぶりの外の世界にとても楽しんで帰ってきたのに、行く前は1,2程度だったウイルスが1500というすごい数値になっていました。苦しくなったり、どこか痛くなったりする事がなく、自分の体で感じる事が出来なかったので聞いた時は驚きました。それから何日か少し熱を上げました。そして、ウイルスがまたおさまってきた頃、今度は点滴治療をずっと続けたことによる貧血の症状が現れ始めたのです。ヘモグロビンも大分下がっていたので、すぐに息が切れたり、じっと立っていれなくなったりするようになりました。何度か輸血をする事になり、その中で具合が悪くなった時もあったのですが、主治医の先生が夜中なのにも関わらず側についていてくれた時は、本当に心強かったです。
 そんな術後クレアチニンが3.5になった時期があった私も、9ヶ月の入院生活を経てようやく退院する事が出来ました。今ではサイトメガロの抗体も自分の中に出来、貧血もありません。腎臓をくれた母、入院生活を支えてくれた家族、友達、そして病院の先生、看護婦さん…たくさんの人のおかげで今の私があります。いくら感謝の念を伝えても足りません。私はこれから、自分の体を守っていくとともに、出来るだけ多くの人に恩返しの意を兼ねて社会貢献をしていきたいと思っています。
 私を救ってくれた皆様、本当にありがとうございました!

30代・男性

この病気との始まりは、23才の頃、検査で血尿と蛋白尿が出ている事に気づいたことからでした。その後、検査のたび、血尿と蛋白尿が出ているので、病院で一度診てもらったほうが良いですね、と言われて行きました。すると、腎生検という言葉を初めて聞かされ、その腎生検をしました。
 30才頃になると、体がだるく疲れる様になりました。特に腰のあたりが苦しくなったりして、自分では運動の仕事をしており、そのような肉体労働で腰が痛いんだなぁ、と思っておりました。また、疲れた体に、お酒も浴びるほど飲み、ずいぶん負担も掛かっていたとも思っています。
 そして、その病魔は、私が34才の晩秋の頃、突然と一揆に襲って来ました。その日の朝はだるく、頭も重く、さらに風邪気味になり、午後4時頃倒れました。深呼吸もで出来ず、胸も苦しく、・・このまま・・・死ぬのかなぁ・・・・と思っていました。しかし幸いにも、その苦しみも30分位でおさまり、その日は安静にしていました。
 翌日、病院に行ったら、クレアチニンが、すでに6.0位まで上がっていました。その時私は、このまま下がらないと透析になる、という医師からの衝撃的な言葉に、呆然としておりました。その後、点滴治療を1ヶ月位続けましたが、下がることはありませんでした・・・・・・。
 平成10年の1月に、CAPDを始めました。CAPDとは、腹膜を利用して、液体交換をし、透析することで、1日4回の液体交換が必要でした。ちょうどその頃には、腹膜透析を始めた先輩がいて、不安だったので、とても心強かったです。
 腹膜透析をして、2年位時がたちました。私に移植のお話があり、秋田大学病院の佐藤滋先生から、家に電話があり、本当かなぁ・・と半信半疑、お話を聞いていました。
 私は、16才の頃、父を亡くしていたので、一人しかいない母親からしか出来ませんでした。それに母はA型、私はB型、移植には最も適合しない組み合わせでした。
 しかし、先生にも言われましたが、ちょっと前までは門前払いだったけど、今は可能性があると言われ、希望を持って透析していましたが、母も障害者であり、心臓にはペースメーカーも入れてある人で、自分では、もらえないなぁと思っていました。けれど、秋田大学病院の佐藤滋先生の色々な努力と研究、そして先生の今までの実績が私の夢を実現してくれました。
平成13年2月27日、私の夢が叶った日です。今まで色んなプレゼントを、色んな人にもらいましたけど、この日もらったプレゼントは、一生涯忘れることの出来ないプレゼントでした。その後、先生と看護婦さんの手厚い看護の御陰で、大変な手術になると言われた手術も、あっと言う間に終わり、傷の痛みもなく、熱も出ず、自分でも、不思議な位に回復し、何事もなかった様に、無事退院する事が出来たのも、医師や看護婦、そして、移植をした仲間の励ましが、あったからだと感じております。
私はこの手術をして、自分を少し変えることが出来ました。また、こんな事も考えるようになりました。この病気は、多くの人の支えにより、生かされている自分であり、普段は気が付かない事も、数々と教えてもくれました。
 今は、生きる力、生命のすばらしさ、笑える楽しさを実感し、毎日が感謝です。社会にこのすばらしさを、移植した仲間たちと移植のすばらしさを、この体験談を通じてわかっていただけたらと思っております。
 最後に、移植手術に携わって頂いた方々に深く感謝して、これからの益々のご活躍を祈ります。また、この病気で苦しんでおられる方々へ1日も早く病気の苦しみから開放される事を願い、明るい人生になる事を祈っております。

40代・男性

移植して約2年が経つが、その間、外来のデータ上には、そんな異常もなく、拒絶反応もなく、順調に来ていましたが、やはり、不安という事は多少ありました。
 入院しての2年目の定期検診をしなければと思っていたからです。近頃、検査をして、何も問題もなく終了し、今は不安を感じる事もなく安心しています。
 あとは今の状態を永く維持し、免疫抑制剤等の薬が少しでも少なくなればと思っています。
 自分では、透析時そんなに極端に顔色が悪いとは思っていなかったのですが、家族、親戚あるいは知り合いの人たちに、大変顔色が良くなったと言われます。家族にも「こんなに良くなるのであれば、もっと早く移植すれば良かった」と言われます。
 透析導入時には、移植には不安の方が、大きかったですが、この移植に関わってくださった先生、看護婦さん方々、先に移植してアドバイスしてくれたみなさんにも、感謝しています。
 そして、今後、移植を希望しているみなさん、透析をしているみなさんにも伝えてゆきたいと思います。

20代・男性

幼少の頃に腎不全になってから移植手術に至るまで、いろんな検査や手術入院を繰り返しました。最初の手術は2歳半の時、腎生検を行いました。手術の記憶は全くなく、物心がついたときに右腹部切開の傷痕を見て、その事を知りました。一生消えない傷とともに自分の腎臓病との付き合いがはじまりました。幸いにも病状はあまり重くなく、小学校の時期はみんなと同じく、普通に過ごしてきました。
 2度目の腎生検は小学校6年生の時。そして、病状が悪化してきたのが中学校の時からでした。腎機能の低下に伴って、クレアチニンの数値が上がっていきました。食事療法をはじめたのがちょうどその頃でした。もともと塩分の摂取には気をつけていましたが、それに加えて高カロリー、低タンパク、カリウムの制限を義務付けられました。しかし、その甲斐もなく十代最後の歳に透析の導入となりました。
「透析」と聞いたときは、ついにきたかという落ち込みの気持ちと、なんとかなるだろうという、あきらめ半分、前向き半分の気持ちが同居した変な気分でした。佐藤滋先生とはじめて会ったのが確か透析導入手術の2、3日前だったような気がします。会うなり突然、移植の話をされて、それについて薦められました。手術をひかえていて多少ナーバスになっていたせいか、話の内容はぜんぜん覚えていません。手術が無事終了し、退院して半年後に再び家族と滋先生の診断を受けて、腎移植を決断しました。ドナーは父がなってくれるということでしたが、家業が農家だったため腎移植後の父への負担を気にしましたが、先生の方から「心配ない、大丈夫。」と言われました。
 数ヶ月後。父が検査をし、ドナーの父とレシピエントのぼくとの腎臓が適合するという報告結果を聞き、腎移植の最終決断をしました。入院は手術予定日の約2週間前、入院予定日は偶然にも母の誕生日でした。
 入院してからは、手術日までに当たり前の事ながら、いろんな検査がありました。病院の規則正しい生活とともに重なって、一日一日があっという間に過ぎていきました。
手術2日前(確か)から、移植による拒絶反応をおさえるためにと、免疫抑制剤を飲み始めました。それに伴う免疫低下のため、手洗いと定期的なうがいが義務づけられました。次の日、急激な腹痛におそわれました。主治医は「免疫抑制剤の副作用だろう。」と言われました。こういったケースはごくまれで薬をやめるわけにはいかないから、どうしようもないということでした。痛みのせいか、その日は眠れず、手術日の朝は半分ねぼけていました。そのせいか手術室には緊張感も不安感もなく向かうことができました(本当は事前に飲んだ安定剤が効いたのかもしれません)。
 手術室に入ってからすぐに全身麻酔をかけられ意識が遠のいていきました。気が付いた時には無菌室に入れられて、からだにいたる所に管が刺されていました。これから一週間寝たきりの毎日。ぼくの場合は傷の痛みよりも腰の痛みの方が強く、苦しかったのを覚えています。でも、免疫抑制剤を減らしていくにつれて痛みを和らいでいきました。術後1週間にもなると、絶対安静からリハビリをかねて、身のまわりのことを自分でやらなければならなくなります。とは言っても無理は出来ません。安静とリハビリの境目が難しいところでした。
 回復の傾向は良好で医師の計画通りにすすんでいき、薬の量も順調に減っていきました。そして、術後1ヶ月での腎生検の結果で拒絶反応もなく退院が決まりました。滋先生に腎生検での腎細胞を見せてもらった時、「君の父さんは普通の父親以上のことをしてくれたんだから。」と言われ、日が経つにつれ忘れかけていた父への感謝の気持ちを思い出しました。多分。一生忘れない言葉でしょう。
 退院して3ヶ月。移植チームのDr、看護婦さん、精神的に支えてくれた母、そして父に感謝しつつ、この体験を書いています。今でも移植した父の腎臓が元気に働いています。

30代・女性

これを前向きな考えと言うのか、それとも元来楽天的なのか、私はCAPDをそれほど苦痛とは思っていませんでした。あの日までは。
 CAPDは生活の一部でした。毎日、毎日。繰り返し、繰り返し。今考えてみると我ながらよくやったと思います。どんなに疲れて帰ってもやらなければならない仕事として。
 私が透析の引導を渡させた時、主治医の先生には「この病院では移植はやっていないからなあ」とおっしゃいました。当時、正直私には何の事かよくわかりませんでした。ずっと前「将来透析になるかもしれない」と言われた時にかすかに聞いた事があるような気がする位で、自分には関係無い世界の事だと思って、気にも止めていませんでした。まして、健康な人の、それも親の体から腎臓を取り出すなんてとんでもない事だと思っていました。
 そして、それから数年、特に具合の悪く無かった私は、仕事が忙しかったのも伝だって、なんとか腹膜炎も起こすことなく過ごしてきました。しかし、毎日同じように過ごしてきたつもりでも、時とともにCAPDにも限界があるということを実感するようになっていました。間接の痛みとか、肌の乾燥、かゆみがひどくなってきたのです。ただ、やはり家族に心配かけたくないのと、自分でも元気にしている事で、元気な気になっていました。加えて、勤務している会社が理解があり続けられたのも良かったのだと思います。確かに時間的にはつらい面もありましたが、ずっと家にいるよりは、生きる気力、などという大げさなものではないけれど、それに近いものがあったのだと思います。
 いずれ、いつか駄目になるだろうなと漠然と思いながらも、そんなに悲観的にならなかったのが、せめてもの救いだったような気がします。そんな私なので、今でも手術を受けたのが夢だったのでないかという気がします。
 せっかく勧めてくださる内科の先生の言葉を無視し続けて来た私は、あるきっかけから佐藤滋先生のお話を伺うことになってしまいました。多分積極的でなかった態度の私に、先生は色々説明して下さった後で、「これは、やってみないとわからない。」とおっしゃいました。一瞬「えっ!」っといたら次に「良さは。」とつけ加えられました。
 なるほどな、と今まさに実感しています。術後、あんなに痛かったはずの関節の痛みが無くなりました。ほとんど老人に近かった超乾燥肌も、なにもつけなくても潤ってきました。日に焼けた?と言われていた肌の色も大部白くなりました。
 術後、最初に思ったのは腎臓ってすごい!でした。たったひとつの腎臓でこんなに変わるなんて、見当もつきませんでした。感謝の気持ちよりそっちの方が大きいなんて、かなり失礼な奴だと自分でも思います。
 結局私は母から2回生まれてしまいました。
 もちろん、これで全てが良くなった訳ではありません。相変わらず不安は尽きません。外傷と違い中身は目に見えない分それが大きいのです。極端に言えば明日は分からないのだと、いつも頭の隅にあります。
 ただ、退院して現実の生活に戻った今、何かとっても楽しい気がします。何かをすることが面倒だとは、思わなくなりました。自分では透析中も透析前となんら変わりないと思っていましたが、どこかで無理していたんだな、ということなのでしょうか。
 たまたま私は、両親が健康で組合せも良くて、良い先生にも巡り会えて手術をしていただくことができました。なかなか面と向かっては言えませんが、私が元気に明るくしていられることが一番なのだと勝手に思っています。

30代 女性

21世紀を間近に控えた11月28日、私の移植手術は行われました。それから、約2ヶ月を病院で過ごし、21世紀を迎えたばかりの真冬に退院となりました。退院後は透析に縛られることなく、時間をきにすることもなく、1日24時間の全てを思いのままに、自由に生活できることがうれしくもあり、戸惑いもありました。
 私は、小学校の卒業文集に「保母さんになりたい」と書きました。幸い、学生時代は健康だったので、短大にも行くことが出来ました。そして、その保母の資格を生かして就職して、毎日を楽しく愉快に、そして有意義に過ごしていた時に透析導入となりました。透析をしながら子供たちの相手をし、宿直勤務もしていたのですが、そんな生活が1年、2年・・・と長くなるにしたがって、いろいろなことが起きました。やはり、体に少し無理があったようで、辞めざる得ない状況に追い込まれていきました。私としては小さい頃からの憧れでもあり、好きで始めた仕事だったので、悔しいのと、情けないのとでたまりませんでした。が、周りにかける迷惑を考えた時に、私がやめれば全てが丸くおさまると思い、納得しました。
 移植をして、一番最初に思ったのことが、この仕事のことでした。しばらく保母さんの現場から離れていたこととや、就職したての頃とでは体力的にも年齢的にも事情が違うことなどで、今の自分にできるか不安になり、先生に聞いてみました。すると先生は「今までと同じ生活をするために、移植したんでしょ、やりたいことをやった方がいいと思うよ」といって下さいました。先生のその言葉に励まされ、保母さんの仕事を探し始めましたが、自分の体力に自身が持てないために、なかなか面接を受ける勇気が出ず、ただ時間だけが過ぎて行くのでした。
 透析中は何をするのにも時間が制限され、やりたいこともやれずに、我慢して過ごした日々だったような気がします。だから移植をして、いろいろな制限がなくなって自由になったのだから、私の青春これからという気持ちでいます。9年間という長い時間を、いろいろな制限のある不自由な生活に我慢し、その中でわずかな楽しみを見つけながら精一杯生活してきまた。だから、今のうちに少しくらいは私の好きなことを、やりたいことをうあってもバチは当たらないだろうと、思ってます。
 毎日暗い顔をして過ごしていても同じ1日、楽しく笑って過ごしていても同じ1日なのです。だったら1日1日を楽しいものにしたいとは思いませんか。私は「保母」という、体力勝負いたいな資格をとり、それを生かして仕事をしようとしているので、なかなかうまくいきませんが、毎日を楽しく過ごしいます。そして、いくら病院に通っているとは言っても、いつ死ぬか分からない世の中です。たった1度しかない私の人生なのだから、どおうせなら、楽しい思い出のたくさんつまった人生にしたいと思うので、後悔をしないような生活を心がけて頑張ろうと思っています。

30代 男性

私は、親からの臓器移植を受けて、2年が経過しました。以前はCAPD(腹膜透析)で、4年ほど行いました。移植直前の状態は、除水もせず、血液のデータも芳しくない末期的状態で、朝、目を覚ますたびに、自分が奈落の底にでもいるような感じが毎日ありました。吐き気や倦怠感が酷く、階段の昇り降りがつらい時期が何年も続きました。CAPD導入当初は、仕事もでき、体調も安定するとの指導を受けて透析に入りましたが、自分にとっては散々なものでした。そんな折り、主治医より「移植のできる環境が整ったので、受けてみてはどうか」との打診がありました。初めは、不安と健常な親を傷つけてしまう自責の念に駆られて、なかなか決心がつきませんでした。しかし、親の熱意や移植関係のスタッフの親身な指導もあり、移植を受けることを決意しました。正直、直前まで自分の中で葛藤は治りませんでした。その後も、手術まではいろいろあり、実際に移植手術を受けたのは、やろうと決めてから、1年後でした。術後は薬の副作用もなく、体調も大分安定しています。これから先のことを考えると不安で押しつぶされそうになる事も多々あります。でも、移植をした人達と話をすると皆こう言います。「先の見えない事をうじうじ考えても仕方ない。それよりも自分たちの元気な姿や笑顔を見せることが臓器提供者や周りの人に対しての感謝の表現方法ではないか。」と。移植を受けて臓器を貰い、同時に人の心の寛容さまで受け取ったきがします。

20代女性

当時の私は腎不全や人工透析療法について知識がまったくなく、まして自分がそういう病気に関わることになるとは考えもしませんでした。H13年2月下旬、高熱を伴うカゼをひいてしましました。その後、カゼの症状は治っても、吐き気と体のだるさが残り、今までこれと言った病気もせず、検査で異常が見つかったこともないために、自分の体が大変なことになっているとは思わずに油断していたのです。
 しかし、どうしようもない程の具合の悪さを感じ、山形中央病院夜間救急にかけ込み、後日再度の検査となりました。そこで初めて尿毒症のため、すぐにでも24時間透析が必要な状態であると告げられたのです。あまりに急な話で、何を言われているのか理解できず、固まったように動けませんでした。
 今晩が山という状況の中で、両親は絶対に大丈夫だからとこれからのことを話し合っていたそうです。後日、いずれ移植することを念頭において秋田県内の転移を考えていると言われました。
 しかしながら、その頃はまだ透析を始めたばかりで目の前の現実を受け入れるだけで精一杯だったのです。正直に言えば、先のことを考える余裕がなく、他事のように聞いていました。今すぐにでもと言う両親とは、かなりの温度差があったように思います。また、実際に受ける身となったら手術にたいしての不安やドナーになる父の体のことを考えてしまい、素直には良いと言えない複雑な気持ちだったのです。
 それでも、内視鏡下ドナー腎摘出術になることで、ドナーの身体的負担が軽減されることや、術後のことを前向きに考える家族の様子、友人達のそれぞれのやり方で気付かい励ましてくれる姿が、少しずつでも気持ちを変えていくきっかけになりました。
 そうして、H14年1月15日に生体腎移植を受けたのです。術後2週間は無菌室で過ごしました。最初は長時間仰向けの体制で自由にならない苦しさや傷の痛みでもうろうとしていましたが、それでも、1日ごとに痛み止めの量が減り歩行可能になって2週間目にはかなり楽になっていました。一般病棟に移ってからは、一本だけ抜けずに残ってたドレーンに不自由さを感じていましたが、抜けた後は腎生検、退院に向けての外泊と、あわただしく術後5週間で退院となりました。退院後、外来で腎生検の結果を聞きましたが、拒絶もなく今でも経過は順調です。
 透析開始から移植が済むまでの約1年は目粉しく過ぎました。今まで当たり前だと深く考えずに見過ごしてきたさまざまな事、人との関わり方や生かされたことの意味を問い直すことになりました。家族のみんなとは、この1年一緒に病気と闘ってきたような気がします。
 この病気を通してお世話になった全ての方々に精一杯の感謝を込めて、本当にありがとうございました。

30代女性

H13年7月10日これでやっと、この苦痛から開放される、そう思った、忘れられない日です。長い間透析をやっている方には、お叱りを受けるかもしれませんが、私の1年間の透析生活は苦痛の連続で、何十年もの長い期間だったように思います。H12年7月11日にCAPDを導入した時、それまでの尿毒症状が消え身体が楽になったのは事実です。CAPDをやりながら、仕事復帰もできるのではないかと思うほどだったので、まさか短期間で状態が悪化するとは思ってもいませんでした。透析後、半年くらいから身体のかゆみやだるさ、不眠が続き一睡もできない日々が何日も続きました。じっとしていると気が狂いそうで、夜中じゅう、歩くこともめずらしくありませんでした。精神的にも不安定で、薬を投与されても何の効果もなく、この状態がいつまで続くのだろうと思うと毎日が苦痛でした。CAPD導入時に移植の話は聞いていたので、早目に移植をした方がいいのではと、家族で話合い、母がドナーとなり、検査の結果、OKが出た時は本当にうれしかったです。でも移植日が決定し、その日を待ち望んでいた頃、トンネル感染があり移植が延期になるのではないかと思ったときは、とてもショックでした。おかげ様で、感染も大事には至らず、順調に治り、予定通り移植にむけての準備が進められたのですが、その頃には、尿毒症状がかなり進み、貧血も強く歩くこともできない位衰弱していました。その上、脳梗塞も見つかり、X線では胸部に腫瘍も見つかり、果たして本当に移植ができるのか、直前まで不安でした。Drとの話合いの結果肺腫瘍の手術を先に行い、それが良性の場合引き続き移植も行うと言うことでしたので、私は麻酔から醒めた時に、はじめてその結果を知ることになります。
よい方に賭けようと思いました。
 当日AM8時30分に手術室に入り、どれ位たったでしょうか、一瞬だったようにも思いますが、手術が終了し、病棟に戻り声をかけられた時、右胸と右腹部に痛みを感じ「ああ無事移植できたんだ」と思いました。痛いけど、うれしい痛みでした。「これで母が喜んでくれる」「家族が安心してくれる」そう思い、とてもうれしかったです、私の苦しむ姿を見て、周りの者たちが、私以上に苦しんでいたと思いますので・・・。
 術後の無菌室での苦痛も、今、こうして元気に過ごしていると、忘れてしまいます。全ては元気になるための過程だったと思えるのですから、不思議なものです。移植して約1年になりますが、ドナーの母も元気ですしあれだけ言ってた創の違和感も今は感じなくなってきたと言ってくれるので、ホッとしています。何より私が元気になったことで、周囲の皆が幸福な気持ちになってくれたことが一番うれしく思います。
 最後に一生懸命治療にあたってくれた、Dr、HSの皆さんと、移植前後にわたって励ましてくれた先輩(先に移植をした方々に)達に心から感謝しております。 元気な身体をありがとう!

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