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20代・男性

私の腎臓病との出会いは、中学1年生の時である。入学時の学校の尿検査で蛋白が見つかり、検査のため平鹿総合病院に入院したが、原因が分らず大学病院に転院し、そこで初めて巣状糸球体硬化症と診断された。
 私の場合、左の腎臓が極端に小さく、その時点ではほとんど機能していない状態だった。とすればもう一つの腎臓が命綱であったにも関わらず、幼かったせいか、はたまた単に食い意地がはっていただけなのか、食事制限をうるさく言う親に隠れて、好きなものを無制限に食べていたような気がする。
 その頃は体調もよく、月に1度平鹿病院で定期的に検査を受けていたが高校1年生の時、主治医の先生の「悪くなっていますね。」の一言で私は地獄に落ちたのである。
 親は、私のためによかれと思う事は何でもやってくれた。
 留年や退学を覚悟で京都の病院に入院させたり、漢方の治療を受けさせたりしてくれた。しかし病気の進行を止めることは出来なかった。夜も眠れず、家の中でさえ歩くのが辛くなった高校2年生の夏休みの終わりには透析を覚悟した。
 腹膜灌流をやる事にして、カテーテルを入れる手術をしたが、上手くおさまらず、排液ができない状態になり、2日後再び同じ手術をする事となった。しかし、それからが大変だった。
 全身状態が本当に悪くなってから腹膜灌流に入ったせいか、それとも排液が上手くいかなかったせいか、それ以降幾度となく肺や心臓に水が溜まり、顔がぱんぱんに腫れ上がったり、腹膜炎をおこしたり血圧は常時200近くあり、入退院の繰り返しだった。
 病院に入院しながら学校に通った事もある。ある時は頭が割れるように痛くなりその後、目が見えなくなった時は本当にこの世の終わりだと思ったものである。その後、自分も大学病院で移植手術を受ける事になった。
 平成10年5月19日の事である。手術は無事終わったものの、1週間後位から拒絶反応が現われ色々な薬が試されたが、有効な薬が見つからないまま、免疫抑制剤の最後の砦と言われていた「OKT3」を打つ事になった。もしそれが効かなければせっかく移植した腎臓を取り出さなければならないと言われた。その副作用たるや凄まじいものであった。高熱や震え、吐き気、倦怠感、それに加え、もう駄目かもしれないと思う絶望感、それは筆舌に尽くしがたいものがあった。
 その場はなんとかしのいだものの、その後も色々なアクシデントに見まわれ、入院してから7ヶ月目でようやく退院にこぎ着けることが出来た。
 その自分が今普通の人のように生活していられる事も、あの時必死になって私に合う薬を見つけようと、夜遅くまで資料を捜たり、製薬会社に問い合わせて下さった先生方のおかげと本当に感謝している。
 今、月1回の検査でおおむね良好とは言え、検査結果に一喜一憂し、それでも頭から「拒絶」という言葉を拭い去る事のできない自分がいる。
 私たち移植患者にとって過ぎた月日を振り帰る事はたやすいが、これから先の五年を思う事は至難の業である。しかしそれが私たち移植を受けた者の宿命なのかもしれないと思っている。

20代・女性

平成10年7月28日に、父の腎臓を移植してもらって、早いもので2年半、術後の経過も良く今は特に不便もなく生活することができています。そんな私は、透析生活が約1年と短い期間だった為、当時の記憶は、かなり薄いものになってしまっているようですが、移植という選択肢があるというのは、とても心強いものでした。その反面、父の体に傷がつくことに対してなど、少し積極的になれないこともあり、悩んだこともありました。
 結果、移植手術を受けたわけですが、前日の透析を終えていざ当日、家族に見送られて手術室へ向かい、その後は本当に「あっ」という間の七時間でした。麻酔科のDr.に「深呼吸して下さい」「手を握ってみて下さい」なんて言われながら、うとうとしてきたなぁ・・これからかな。なんて思っていたら、「おわりましたよ」の声。まだ私眠ってないよ・・と思っていた私のこの一瞬的な出来事も、待っていた家族にとっては、それは長い長い時間だったようです。病棟に戻ってからも、看護婦さん達の付きっきりの看護のおかげで、不安も苦痛もほとんど無かった様に思います。寝たままの状態で、腰痛には苦しめられましたが・・。
 無菌室は、とても快適でした。とても快適でしたが、採血の結果と尿量に、かなり神経質になる空間でもありました。でも私には、先に移植手術をして、いろんな事を教えてくれる方々がいてくれたので心強かったです。
 術後の経過も順調で2ヶ月位で退院できたわけですが、入院生活が術前約3ヵ月と合わせて約5ヵ月と長かった為、かなり日常生活を修正するのに苦労しました。これといって悪い状態になることもなく、平穏な2年半を過ごさせてもらえたので、特別な出来事なんてのはないですが、病気をせずに暮らしていたら当然と思っていたであろういろんな事に、感動したり感謝したりできる今があるのがとても倖せです。

40代・女性

約5年間の透析を経て、妹から腎臓を提供してもらい、移植を受けました。私の病気の進行は思った以上に早く、移植のことはもちろん、自分のこれからのことを考える時間もないまま透析を始めました。その時は、移植という選択もあると聞いたものの健康な体に傷をつけるのも抵抗があり、生きる手段があるのだから、それでいいと思いました。実際に移植を受けるなんて想像もしなかったことです。
 3年後、ドナー登録をしました。気持ちも安定し、色々なことを考える余裕が出来たところです。献腎による移植の可能性は極めて低いとのこと。生体腎移植を勧められました。先生から生命への貴重なアドバイスがあり、家族が移植について真剣に考えるきっかけになりました。母と2人の妹が検査を受けてくれて、妹たちの適合がより良いことがわかりました。そんな中、秋大病院で「移植再開」の新聞記事を目にしたのです。秋田で手術が出来るなんて何か光りが見える思いがしました。まもなく妹から"お互いが元気なうちに手術しようか"と腎臓提供の話がありました。私からは言い出せずにいた言葉。妹も家族のある身です。どんな想いで決断してくれたのでしょう。
 入院から手術まで1ヶ月以上ありました。不安で一杯の気持ちを移植した先輩たちが和らげてくれ、とても心強く感じました。あとは先生にお任せするのみです。
 いよいよ手術。麻酔でもうろうとする中、おしっこ出てますよの声、無菌室の中でした。
 首の点滴がうっとうしく感じられ、とにかく腰が痛くて辛かった、そんなことが思い出されます。何か物足りなさを感じるくらい順調に回復し、1ヶ月足らずで退院出来ました。妹との適合がよく、幸運だったと思います。
 移植したことを特別意識することもなく、妹の腎臓は、元気に私自身の一部として機能しています。病気になってからは、ストレス続きの毎日でした。透析から開放されてみると、いかに身体や心に負担が掛かっていたかを改めて感じます。
 移植してから、先のことを思い悩むのはやめようと思いました。前向きにと言うより、開き直っての方が正しいでしょうか。物事を楽天的に考えるようになりました。折角いただいた命。1日でも長く元気な姿を見て欲しいと思うのです。これからも自己管理に努めつつ、沢山の方々の手を借りながら、今を大切に生きたいと思っています。お世話になった皆さんに心よりお礼を申し上げます。

50代・男性

長い間の腎不全の苦しみから開放されるには、人工透析と言う対症療法を続けるしかない。1日4時間、週3回の人工透析は苦痛だ。どこでも出きるものではないだけに、いろんな制限が付くし、日中もしくは夜間透析をしなければならない。
 私は透析歴2年、ドナー(臓器提供者)登録する為、大学病院に行き、そこで医師の佐藤滋講師に出会い、腎移植を進められた「ドナー」の父は、医師が丁寧に説明してくれたので父も納得してくれましまた。
 腎移植とは元の腎臓はそのままにして父の腎臓を右に繋ぐ、通常手術は7‐8時間で終了。
その後無菌室で5日から1週間過ごした後、一般病棟に移り1ヶ月で退院後、1週間で1度の割合で通院に行き検査を受け、その結果で拒絶反応を見たりする。その上で薬の量を決定する。
 1日約1,8リットルの水分を取らなくてはならない。透析中は水分を控えるように言われた時はとてもつらかった。水が欲しくて欲しくて仕方がなかったが、たっぷり飲めと言われるのも楽ではなかった。世の中はうまく行かないものだと思った。
 この様な状態にも少しずつ慣れて来て調子が戻ってきた。貧血気味で何をやっても疲れたが、今では体力が少しずつ付いてきている様だ。
 移植手術を受けることが出来、本当に良かったと思う。皆さんも、まだまだ先のことだと思う気持ちを捨て、一日も早く移植手術が出来ることを願います。

30代・女性

慢性腎不全、そして透析、まさか自分がなるとは思っていませんでした。6歳くらいの時、高熱で家族に連れられ病院へ。検査の結果、血尿もあり腎盂腎炎と診断され、1週間くらい入院した記憶があります。それが今回の病気への始まりだったのでしょう。それからは、特に気にもせず、時は過ぎていきました。でも、高校生になったころから尿検査をすると蛋白が出るようになりました。その後、貧血、高血圧なども。でも、あまり深く考えもせず、病院へは真剣に行こうともしませんでした。しかし、平成8年12月、またしても高熱、風邪をこじらせ入院。このことが、今までなんとか落ち着いていた腎臓を悪化させてしまったようです。平成10年5月、腎生検を行った結果、「IgA腎症」と診断されました。この時自分の腎臓がどれくらいもつかは分からないと言われました。そして、今後透析が必要になると言うことを。
 IgA腎症と診断されてからは、あっという間でした。同年12月に腹膜透析を導入。自分に「透析」という言葉が重くのしかかってきました。ましてたった7ヶ月という短い間に現実になるとは思っていませんでした。あまりの時間のなさに考える余裕さえありませんでした。今までの自分の病気への対応を後悔しました。一生透析をしていけなければいけないのだと思っていました。これからどんな生活が始まるのだろうかと。
 そんなある日、腹膜透析の手術を控え、入院中の私に、先生が思いもしない言葉を口にしました。
「今日、大学に行ってきた。移植する気はないか?」と。
 自分の耳を疑いました。「移植?」まだ、透析を始めてないうちに移植の話が出てくるとは思いもしませんでした。確かに、透析の他に移植をいう道もあるとは聞いていましたが、自分には、それほど関係のない話だと思っていました。あっても何年も先の話だろうと。
でもこんなに早く話が出たのには、もう1つきかっけがあったと思います。入院する際に母が移植について聞いていたからです。母の一言がなければ今の生活とは違っていたかもしれません。出来るものなら移植したいという気持ちがあったので、話を進めていただきました。腹膜透析の手術を終え、退院間近の2月、入院していた病院から秋田大学病院へドナー予定の母と一緒に検査に行きました。そして検査の結果、母をドナーとして、生体腎移植の手術を受けることになりました。
 移植が出来ると決まった時は本当に嬉しかったです。その反面、不安もありました。移植後のこと、そしてドナーになった母のこと、手術後今までと同じような生活が出来るのかと。そんな不安を手術前に移植体験者に聞く機会を設けていただき、話を聞いて、そして元気な姿を見て安心しました。
 そしてその日はやってきました。平成11年、6月15日、私は生体腎移植を受けました。当日、母が先に手術室に向かいました。9時頃、私も病室を出て、手術室へ。手術室に入って間もなく麻酔、あっという間に意識が薄れていきました。
 手術を終えて、無菌室へと運ばれていきました。でも、まだ麻酔が効いていたせいか、私は次の日の朝まで、ハッキリとした記憶がありません。翌朝、ぼやっとした意識のなかで終わったんだなぁという安堵感に満たされていました。
周りを見わたすと、点滴などのチューブがたくさんでした。
 手術後、何日間は、安静状態で動けなかったので腰の痛みがありましたが、傷の痛みはほとんどなく、苦痛ではありませんでした。そしてチューブも徐々に抜け、経過も順調、2週間で無菌室を出て一般病棟へ。
 術後3週間が過ぎた頃、腎生検をしました。その結果、軽い拒絶反応が出て、点滴治療をしました。拒絶反応が出たと聞いた時は、また不安でいっぱいでした。でも1週間後の腎生検では拒絶反応もなくなっていました。その後、サイトメガロウイルスの治療をしたりと、多少時間は掛かりましたが、9月、術後85日にして退院することが出来ました。
 今は経過も順調です。そして母も元気にしています。母からもらった腎臓がしっかりと私の中で働いてくれています。今では、透析の頃の、塩分制限や水分制限もなく、健康な人と同じ生活を送っています。お世話になった先生方、看護婦さん、家族、他たくさんの方々のおかげで今の生活があります。本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
 そして母には、とても感謝しています。「ありがとうございました」
 母からもらった3つ目の腎臓をこれからも大切にしていきたいと思います。
たった1年で貴重な体験をしました。病気発生から透析、そして移植と。透析を何年も続けている方々がたくさんいる中で、私は本当に幸せだなと思っています。そして移植して良かったと。

8歳・男子

僕は、3歳の時お腹の調子が悪く、近くの病院に通院していました。その時エコー検査で腎臓に異常があることがわかり、秋田大学医学部附属病院で精密検査を受けることになりました。大学病院での検査で僕の腎臓は、2つで普通の人の3割位しか働きがないことがわかりました。
3歳の時、秋田大学病院で逆流防止の手術と尿管皮膚瘻の手術を受けました。お腹の右側に袋のような物(ストーマ)がついて、そこにおしっこが溜まっていました。幼稚園に入園した時、お友達にお腹の袋を見て「これなぁに」って聞かれとても恥ずかしかったです。幼稚園にいる時も時々おしっこが漏れてしまい途中で家に帰った事もありました。また管の部分が痒くなったり、管がお腹の中に入ってしまい近くの病院に急いで行って、入れ換えもしました。
6歳のクリスマスの日、僕は腹膜透析の手術を由利組合総合病院で受けました。その時はじめて佐藤滋先生と会いました。その後約1年半腹膜透析をしました。透析の時間は、毎日8時から次の日の朝まで掛かりました。透析の管があったので、運動も著しく制限され友達ともあまり遊ぶことが出来ませんでした。透析をしても、体調はあまりよくなく時々頭が痛くなったりしてフラフラすることがありました。
小学校に入学して、1年が過ぎた頃、鈴木隆先生から腎臓移植の話が具体的にありました。はじめ僕は、お父さん、お母さんから東京にある病院に行かなければならないと聞いていました。でも秋田大学病院で手術が出来ると聞いて、少し安心しました。なぜかと言うと、大好きなお姉ちゃんと少しでも近くにいられるからです。
一昨年の7月に、僕はお父さんから腎臓の移植をしました。手術が終わってお腹にあった管がもう何もありませんでした。ちょっと長い入院でしたが、今は前より身長が伸び運動も出来るようになりました。僕が退院出来るようになった時、先生と看護婦さんでお祝いをしてくれました。あの時はうまく言えなかったけど本当はとても嬉しかったです。
全校マラソン大会では800メートルを五分以上掛かりましたが、完走できました。みんなに拍手をもらいました。以前では、とても考えられませんでした。入院中は、毎日点滴ばっかりでイヤだったけど今では以前と比べることが出来ないくらい体調が良いです。
お父さんと一緒にお風呂に入ると、お父さんが僕に「調子いいか」と聞きます。僕は、いつも「調子いいよ」と答えます。お父さんのお腹のキズを見ると、僕はこの腎臓を大事にしなければと思います。入院生活が長かった為、勉強が少し遅れ気味なので、これからはいっぱい頑張って行きたいです。滋先生、看護婦さん、ありがとう。それから、僕みたいな子供でも、もっと大学病院で手術できたらなぁと思います。

30代・男性・ドナー

私が腎移植のドナーとして、息子と腎移植手術を行ったのは、一昨年の7月13日のことである。その年は例年にない猛暑であり、それにもまして病院内の空調工事の為、冷房がまったくと言っていいほど効かず、異常に暑かったのは記憶に新しいところである。息子はまだ8歳であったが、3歳の時、エコー検査で腎臓に異常があることが分かり、秋田大学附属病院で精密検査を行った結果、腎機能の働きが2つ合わせても通常の3割程度であり、両側に膀胱からの逆流も見られるとのことだった。妻と二人でこれからの治療方法について担当医師からの説明を聞き、最終的には腎移植しかないと言われ、落胆してしまった。その後、まもなく左腎への逆流防止の手術をし、右腎は尿管皮膚瘻の処置をした。その後、成長とともに腎臓への負担が強まり、6歳で人工透析(腹膜透析)を受けることになってしまった。1日10時間あまり、夜間とはいえ子供ながらに束縛されて親戚の家に泊りがけで行くにしても、CAPDの装置を一式かかえ、また数回ではあるが腹膜炎も起こしてしまった。
 息子が小学校に入学し、1年が過ぎ2年生になった時、当時の主治医である鈴木隆先生より腎移植の話があった。はじめは小児なので東京女子医大での手術が有力だったが、秋田大学附属病院でも出来ると伺った。娘もまだ小さかったので(当時小学5年生)こんなに近くで出来ると聞き気持ちに踏ん張りがついた。しかしその当時、私は腎移植に関する知識が乏しく妻が書店から買ってきた腎移植に関する本を読んでは驚きと不安ばかりが募ってきた。また息子に移植手術の話をする時も、「おなかの管(腹膜透析・尿管皮膚瘻)が全部なくなるよ。もう1回がんばらないか」としか言えなかった。しかしその時、息子が屈託のない笑顔で「がんばるよ」と言ってくれた。大学病院での手術が決まり、日々不安が募っていく中で、息子の通院日にちょうど移植手術を受けられた方々と、外来の看護婦さんがお話をする機会を設けて頂き、色々なお話を聞くことが出来とても感謝しています。
 7月1日に息子と一緒に秋田大学病院に入院し、2週間後に迫った移植手術に向け色々なドナーとしての検査が始まった。私は、ほとんど病院での検査とは無縁であった為、正直言ってビックリする検査もあったが、主治医の先生、看護婦さんに親切に教えて頂き、全くと言って良いほど不安感はなかった。
ただ、検査の結果がもしかしたら・・・という不安だけだった。無事、ドナーとして息子に提供できると聞き安心した。手術日前夜、やはり不安は募るもので息子の付き添いでいた妻と話しこんでいた。
手術当日、私と息子は、ほぼ同時に手術室に入った。いくら時間が過ぎただろうか、私が病室に戻ってから4時間後に、息子がようやく戻ってきたと聞いた。まだ麻酔が効いている中で無事手術は終わったと聞いてひと安心した。
翌日、佐藤滋先生より「お父さんより、良いおしっこが出ているよ。」と聞き、またひと安心した。妻が私の病室で息子の状況を話してくれ術後も安心して回復している状況で嬉しかった。術後3日でようやく歩くことができ、息子の病室に向かった。まだ少し痛々しい感じだったが、以前と比べ顔色も赤みをおび、おしっこの色も以前と比べ濃い色になっていた。術後10日で私は退院し、翌週から会社に出社し、以前と変わりなく仕事をしている。また、息子も今では元気に歩いて通学し(片道1、5キロ)活動範囲も今までと比べようもないくらい広がり充実した生活を送っている。
最後に移植手術に携わって頂いた方々に深く感謝致し、これからの益々のご活躍を祈念致します。

20代・男性

私が入院した日は、偶然にも腎移植が行われていて、無菌室は完全にレシピエントの受け入れ態勢が整っているようでした。そこでまさかと思いましたが無菌室を見せてもらえる事になりました。すると、私が想像していたビニールで覆われた部屋ではなく、ただ壁一面が空気清浄器の個室でした。その時私は、「こんなもんで良いんだな」と思い、変な安心感を感じていました。
 入院した日から2週間後の腎移植までの間には、検査が山ほどありました。・・とは言え私の場合、した事のない検査は胃カメラぐらいのものだったので、それほど苦にはなりませんでした。それに、ドナーである父と一緒に診察や検査を受ける時もあり、絆が深まっていくのを感じていました。
 手術前日の午後9時には、佐藤滋先生が訪ねて来てくれて心にゆとりを持つことが出来、手術当日は、早朝にも関わらず、私が入院した日に腎移植を受けた人がアドバイスをしに来てくれました。このような先輩からの言葉は、やはり経験者ということで説得力がありました。
 手術を終え、目覚めた時は無菌室のベッドの上でした。その時私は、痛いというよりも同じ体勢をとるのが辛くて叫んでしまっていました。そのような人は、後にも先にも私しかいなかったようです。しかし、「辛いのは1週間だけ」と言われていたので、その言葉を信じて、とにかく1週間は頑張ろう、と思っていました。
 1週間後。管が全て抜けていたという事もあり、その言葉通り、随分と楽になっていました。その後、私の場合は、術後3週間で無菌室を出る事が出来、4ヵ月後に退院をする事が出来ました。ちなみに、腎生検は3回行いました。
 退院後の今では、ストレスを溜めず、笑顔で毎日を過ごせれば良いと思っています。また、これから腎移植を受ける人、受けたばっかりの人には、積極的に声を掛けていきたいし、気軽に何でも聞いて欲しいと思います。

20代・男性

10代に発見された慢性腎炎から、20代半ばに慢性腎不全となった私は、腹膜透析を経て血液透析を受けていた、週3回(月水金)午後5時から4時間の透析は、もう日常の一部であった。
 秋田大学病院で移植が再開されたという話を聞き、肉親からの生体腎移植のほかに、亡くなった方からの腎臓をいただく献腎移植もあることを知った。そのときの主治医のすすめもあり腎移植希望をしたが、登録をしてもなかなか機会に恵まれることは少ないという話も聞いており、ほんの気休めのつもりでいたことも事実である。
 そのように私は献腎移植の話を持ち込まれたのは突然のことであった。登録後1年未満という極めて早期に訪れた機会である。献腎移植はその性質上余裕を持って取り組むことができない。深夜連絡をもらい次の日即入院、主治医、移植コーディネーターからの説明、諸検査、手術前の透析等次々にこなさなければならない。私にとっては手術までの時間が短くて済み、あれこれ考えて不安になる時間が短くて良かった気もするが、このような意味でも日頃透析を受けながらでも健康管理に気をつけておくべきである。
せっかくの機会に恵まれていても、本人の体調いかんでは、その機会を逃してしまう可能性もあるからである。
 その日の夕刻より手術室に入ったが、手術そのものはうまくいったそうである。私自身は麻酔のためもう何も覚えていない。次の日、麻酔が覚めてもぼんやりしたこと、おしっこの管が窮屈であったこと、おなかの調子がよくなかったことなどしか覚えていない。しかし特に痛かったということもなかった。ここでまた生体腎移植との違いがでてくる。生体腎移植の場合は手術後すぐおしっこが成形されるが、献腎移植の場合は、その移送の関係で腎臓の機能が回復するまでに時間がかかる、ということである。何がつらかったというと、この手術後おしっこが出るまでの時間の不安というのが大きかったのである。手術後約2週間が目安であるというのは主治医の先生から聞いてはいたが、その間透析はしなくてはいけないし、強度の貧血になったりと、本当に腎臓は大丈夫なのか?という心配はおしっこが出てくる2週間後まで続いた。でもその間の、ドップラーエコーによる腎臓の血液の流れが、日々よくなっていくのを教えてもらったりすることにより、不安が軽減された。
 手術から2週間後、移植した腎臓からのおしっこが出てきてからは順調に回復していった。拒絶反応もみられず、手術から2ヶ月で退院の日を迎えられた。
移植後食欲が出てきたため体重が増えたりしたが、透析前の生活にほぼ戻る事ができた。いまでも拒絶反応を抑える薬の服用や、腎機能を活発にさせるために多くの水分をとるなどしているが、仕事にも復帰し元気に過ごすことができている。
 ここまで来れたのは、病院の先生方、移植コーディネーター、看護婦さんはじめスタッフの方々、家族、職場のみなさん、そして腎臓を提供してくださった方とその家族のおかげであることは、トイレに行くたび、頭をよぎる。このように多くの人たちの手を経ていただいたこの命を大切にするため、自分の健康管理、毎日の生活を大事にしていきたいと思いながら、毎日を過ごしています。

20代・女性

私は、中学生の時に病気になり、19歳の時に透析を開始、平成11年11月16日に移植をしました。ドナーは母でした。
 私が透析をして、1年ぐらいに「移植」という言葉が私に飛び込んできました。仙台の病院の先生から生体腎移植をすすめられ、家族と話し合って生体腎移植を決めました。しかし、血小板が少なくステロイドを20r服用していて、移植は延びていきっぱなし、結構諦めていたかもしれません。
 大学病院で移植が開始され、前に同じ病院に通っていた人が移植をした、ということでお見舞いに行きました。貧血で顔色が悪かったものの、すごく元気で自分のことのように嬉しく思いました。あの時、お見舞いに行って良かったなぁて思います。
 ある日、透析に通っていた病院の先生に大学病院をすすめられ、家から近いということで、大学病院で移植をすることに決めました。ステロイドも20r服用してもいい、血小板はやっぱり少なかったけど移植1ヶ月前に入院して、様子を見ながら調整していくということでした。移植の日は、10月18日に決まり、入院したのはいいのですが、検査をする度に血小板は減る一方、予定日も近いのに薬もちゃんと飲んでいるのに、結局血小板は増えなくて移植日は、次の人と交換で11月16日になりました。万全の体制で望んだほうがいいから、ということでした。自分では10月にやるという気持ちがあったので、残念だったなと思いましたが、次は移植する、という気持ちで1ヶ月間過ごしました。ステロイドを少しずつ増やしながら、おかげさまでこのくらいなら手術ができる、というところまで増えて、移植ができました。
 移植当日、緊張しながら手術室に向かいました。手術室に入って数分後には麻酔が効いて、目が覚めたときには無菌室の中で、点滴が何本もぶら下がっていました。手術中に血小板が減り貧血も強く、輸血、血小板の輸血もしました。移植した人から傷の痛みより、腰、背中の方が痛いと言われていたのですが、やっぱり腰、背中が傷の痛みよりも痛かったです。腰、背中の痛みも一日一日なくなって行き、今までの痛みが嘘だったかのように消えて行きました。安静度も初めの頃にやった人たちよりも和らいでいて、私はまだ楽な方だなと思いました。透析していた頃の食事、水分は制限があり、あまり食欲がなく、尿量は300tぐらいしか出ませんでした。
移植後は、食事、水分の制限もなく、尿量も平均して1500tぐらい出るようになり、移植して良かったなと思います。多少のむくみはあるけれど、拒絶反応もなく54日で退院することができました。心配していた血小板も正常範囲にあります。合う人合う人に、顔色良くなったね、元気になったねと言われるのがとても嬉しいです。
 移植に関わった先生、看護婦さん、それから、家族、母にすごく感謝をしています。母にもらった、3つ目の腎臓を大事にして、楽しい生活を送りたいと思っています。

40代・男性

腎不全になった時に、移植をいうことを考えていましたが、具体的には、他人からの献腎移植は難しいということしか知らなくて、まずは、移植ネットワークに登録して、移植あるいは、腎不全という病気に関して知ろうと、講演会があれば出掛けていく、現在の医療について学びました。そして、肉親からの生体腎移植を決めました。
 今、実際に移植をしてみて思うことは、腎臓を提供する側とされる側が移植のこと、移植後のケア、心構えについて知識を持つことが、必要だと思うことです。そして、家族にも機会があれば講演会に出掛けてほしいと思っています。
 透析時には、自分にとって、食事と水分の制限はとても困難でしたが、移植後の今でも、食事には努めて気をつけています。
なによりも、自分の状態に敏感になり、少しでも気になることがあれば、早めに病院
に連絡して、気をつけることだと思います。注意することで、避けられることがあれば、そうするべきだと思います。そして、少しでも長く、いつまでも元気でありたいと思います。

30代・男性

透析患者は「難民」に類似している所があると考える。自らの力では生きていくのが困難であり、他の力を必要とする。人は誰しも他人の力がないと生きてはいけないものだが、それらよりも強固な援助を必要とするように思える。更に、自力で活路を見出す意識を持たなければならないものではとも思える。
 苦境からの脱却と言うべきか、他の力を借りてそれが出きるのであれば、是非にも幇助してもらいたいと考えるのが常であろう。
 幸い私には腎臓移植術という選択肢が存在した。「難民」にしてみれば技術支援にあたるだろうか。
 自らの力で活路を切り開いていける、いわば「至高の手段」を得たようなものであると思う。「透析患者」も「難民」も形は違えど苦しさに変わりはない。昔、苦境から脱しえたらどんなに楽だろうと思い描く事も少なくないだろう。私は腎臓移植術を受けた事で苦境から脱出する事が出来た。と同時に「生活の糧」も永久に存在するわけではないが、生きる源になってくれるには確実だと言えよう。生きる力を与えてくれた腎臓移植術に敬意を表したい。

*文章の中の「難民」は、誹謗、中傷の代替しての意味ではありません。

30代・女性

「手術日が決まりましたので、入院して下さい」という一本の電話から始まった入院生活でした。到着したその日から、検査、検査で忙しく、検査の合間に透析をしていたような毎日でした。
 そんな私が、移植手術をやっと、自分の事として受け止められたのは、透析の最後の日だったような気がします。透析室での「最後の透析だね。手術、頑張ってね。」と、いう会話で初めて、移植するんだなぁ・・・と感じたものでした。そして、シャントが出来るまで難儀した事、初めて透析をするときの恐怖&緊張、透析中の数回の入院&手術・・・など、様々な出来事が、それこそ走馬灯のように思い出され、切なくなったものでした。
 移植後も、決して順調なわけではありませんでした。長い透析生活のおかげで?思うようにオシッコを出せなくて、透析中でさえ経験のしたことのない、肺水腫になって苦しい思いもしました。そして、そのムクミから様々な症状が現れ、改善するために良かれと思って服用した薬に負けて、却って具合が悪くなったこともありました。少し状態が良くなったりと、一進一退の繰り返しで、自分自身にかなりまいった時期もありました。そして、我慢できずに先生に言うと、先生は少しも表情を変える事なく「大丈夫!」と、明るく言って下さったり、「考え過ぎかなぁ?」と、思わされました。が、退院の時に先生に、「いろいろあったけど、良かったね」と、言われた時には、やっぱりいろいろあって、先生も困っていたんだ!と気づかされました。
 そんな風に、決して順調ではなかった移植手術に伴う入院生活も、丸3ヵ月を迎えたところで幕となりました。これからの生活に対して、何かと不安や心配はありますが、入院生活で得た、様々な経験や知識を活かして頑張っていかなければ・・・!と思っています。そして何より、健康な体を傷つけてまで、腎臓を提供してくれた親に感謝をする意味でも、これからの自己管理を、しっかりしていかなければならない!と思っています。
 今回この移植手術に伴う入院中にお世話になった、たくさんの方々に感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。

20代・男性

人工透析導入から2年が経った頃のこと。生体腎移植の話が持ち上がり、秋田大学病院泌尿器科の佐藤滋先生と移植コーディネーターの方が、横手病院までわざわざ訪ねて来て下さり、腎移植についての話しをすることになりました。
その時私は、透析後すぐに、透析室を出て、泌尿器外来で両親と一緒に移植についての話を聞きました。滋先生はあらかじめ、両親と私の白血球の型である、HLA検査の結果を見て、「両親はどちらも適合して、年齢的にも移植適齢期ですよ」と言ってくれました。けれども、その時はまだ身近に腎移植をした人があまりいなくて不安で、申しわけありませんでしたが断ってしまいました。・・が、それから間もなくしてから、私の身近で生体腎移植を受けた人がいる、と透析室のスタッフの人から聞きました。平成11年に入って、間もない頃のことでした。
その後、色々なことがありましたが、両親と話し合いをしてから横手病院の先生へ、「移植することにします」と報告しました。3月下旬のことでした。それから病院の方から大学病院へ移植する事を報告してもらい、平成11年(1999年)9月7日に入院する運びとなりました。
大学病院への泌尿器科に入院するのは初めてでしたが、大学病院への入院は3回目だったので、その点は安心でした。
入院初日は担当の看護婦さんによる病棟の案内などがあり、次の日からは検査が始まり、ドナーになってくれた父と一緒に内科などへ行って検査や診察を受けました。手術日までは、もちろん人工透析があり、病院ごとに透析をやるまでの準備などが、若干違うと聞いていたので、少しは不安もありました。けれど、事前に透析室に行き、大学病院なりの透析前の準備などを教えて頂いたり、見学もさせてもらったので安心でした。
 入院してから1週間目には病院の地下1階の床屋に行き、頭を3分刈りにしました。少しでも体を清潔にするためだそうです。私はそれほど髪型にこだわりがある方ではないので、そのことに関しては特に抵抗はありませんでした。
手術前日は午後から透析を受けて体を万全に整えておき、手術当日は意外に余裕があり、写真やビデオカメラを弟に撮ってもらっていました。また、家族や親戚の人がたくさん来てくれて、とても嬉しかったです。
約9時間の手術が終わって、最初の記憶は手術日の夜のことです。いきなり叫んでいた記憶でした。私は普段から仰向けで寝る習慣がないため、長時間の仰向けの体制が辛くて叫んでしまいました。それに加えて痛さもあったため、1時間半ごとに痛め止めの注射を肩にしてもらっていました。その痛め止めの注射は、1日ごとに打つ間隔が長くなっていき、何日かするとしなくても良いようになりました。
腎移植後、最初にオシッコが出た時は、とても感動しましたし、その時のことは、今でもハッキリと覚えています。腎生検は、無菌室へ入ってから約3週間後にありました。昔とは違い、検査自体に痛みもほとんどなく、安静時間も24時間から6時間に短縮していました。以前は検査というよりも手術をするような意気込みで望んでいた腎生検も、ここまで医学の進歩で気軽に受けられるようになって本当に嬉しかったです。また、今回の腎生検は手術で腎臓を腹部から入れたので、以前のように背中側からではなく腹部から行いました。そして、その腎性検から3日後に、大部屋へ移ることが出来ました。
 大部屋に移ってからはマスクをしたり、うがいを1日に何回もして感染予防に気をつかっていました。
退院する時はイキナリ退院するのではなく、少し体に負荷をかけてから、退院するように外泊を5回行ってから退院しました。手術から約3ヶ月目の年も押し迫った12月29日のことでした。
退院してからの大学病院への通院は、初めは1週間間隔で次第に2週間、そして1ヶ月間隔になりました。その通院では外来へ行くと移植した人が自分1人だけではないのだな、と心強くもなりますし、色々な相談に乗ってもらったりと、同じ経験をした者どうしの輪がとても感じられます。
現在は、父から戴いた腎臓を大切にして、少しでも充実した日々が過ごせるよう努力したいと思っています。

30代・男性

「○○さん、終わりましたよ。」麻酔覚めやらぬ、意識朦朧とした中、担当医の声がかすかに聞こえてき。それは、父をドナーとした生体腎移植術の終わりを告げる声であった。平成11年6月1日の事である。2年半の腹膜透析の生活は、悪戦苦闘の毎日であり、調子の良い日が、年に何日もなかったと記憶している。それだけに、この移植により、ここまで回復できた事は、驚きと同時に、感謝の気持ちで一杯である。
 これまでの経緯を振り返ると、昭和55年秋、15歳の時の血尿に始まり、17年の歳月を経て、ゆっくりと腎機能は廃絶への道をたどった。その後、年1回の尿検査では、必ず陽性反応を示したが、再検査先の内科医からは「起立性蛋白尿で、特に心配無用」という判断をされていた。今、思うに、最大の失敗は、初期に専門機関を受診しなかったこと、また、蛋白尿を軽視した点に尽きると言えよう。沈黙の臓器は、自覚症状もないまま、静かに悪化しているようである。
 平成6年9月、疲れが取れず、足首に浮腫が現われ、近くの内科医を受診。既に、クレアチニンは2,0を示していたため、専門病院を紹介され、腎生検が行なわれた。結果は、IgA腎症と診断され、腎機能は約40%まで低下していた。だが、この時点でも、まだ私は安易に考え、必ずや完治するものと信じていた。
 しかし、平成7年秋、クレアチニンが4、0を示した頃、遂に医師から人工透析導入の旨を宣告された。到底、素直に受け入れられず、一縷の望みを託し、食事療法など、あらゆる方法を試みた。だが、無駄な抵抗であったのか、嘔吐の繰り返し、頭痛といった尿毒症状が無情にも我身を襲い始めた。
 平成9年1月20日、秋田組合総合病院にて、人工透析を開始。これまでの31年間が一変し、自由が奪われ、それなしには、生命維持は不可能となった。その療法あっての生命であり、現在があるのに、あまりの身心の苦痛のため、私は沈みがちになっていた。特に、肉体的には、高血圧による頭痛、肩こり、吐きけ、かゆみ。精神的には、それらに付随した不眠、イライラが、そうであった。このように、常に体調はすぐれず、明るい展望のない憂鬱な日々が続いていた。
 ところが、平成10年10月、一筋の光明が見え始めてきた。両親から「HLA検を受けたい」という意思が伝えられたのである。常に、不調を訴えていた私を、見るに見かねてのことであった。早速、泌尿器科の佐藤先生を訪問した。先生の丁寧な説明は、それまでの疑問を一つ一つ氷解させ、両親からは、十二分に納得した上で、承諾をしてもらった。検査結果は、どちらも6分の3であったため、最終的にドナーは、70歳という高齢にもかかわらず、強く希望した父に決定。紆余曲折を経て、8ヶ月後に腎移植は行なわれた。
 術後の1週間は、傷の痛み、腰痛に悩まされたが、歩行可能になってからは、それらもすべて解消され、食欲も出て、日増しに回復していくのが実感できた。その後、特に、大きなトラブルもなく、1週間で一般室へ戻り、約2ヶ月で退院することができた。父もまたしかり、術後わずか2週間で退院をした。
 移植後の現在は、常に200を越えていた高血圧が、正常値に戻ったのをはじめ、ほとんどの症状が改善された。特に、精神的に落ち着きを取り戻し、前向きに生きられるようになったことは、何よりも得がたいことであった。また、この病気は、多くの人の支えにより、生かされていることなど、普段気が付かないことを数々教えてもくれた。
 現在、全国で約20万人もの方々が、透析療法を受けていると聞く。悲しいかな、人工透析は、腎移植の一部分しか代替することはできず、それには遠く及ばない。一人でも多くの方が、移植療法によって救われることを念願してやまない。
 最後に、24時間体制で治療・看護にあたっていただいた秋田大学医学部附属病院移植チームの皆様、透析療法でお世話になった秋田組合総合病院の皆様、そして、ドナーの父に対し、心より感謝を申し上げます。

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